2011年12月1日木曜日

多様性




アフリカの国際機関の研修を受け始めて、再認識したことがあるが、それは多様性である。同じ研修を受けている若手入社組も合わせて、総勢20名ほどのメンバーであるが、出身国はカナダ、フランス、ドイツ、スペイン、イギリス、日本、韓国をはじめとするアフリカ以外の国を始め、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、エジプト、ガーナ、ブルキナファソ、レソト、エチオピア、ナイジェリア、シエラレオーネ、ボツワナ、モーリシャス、ベニンとアフリカからの出身国も様々である。

アフリカの国際機関での公用語は英語とフランス語であるが、当然ながら、フランス語を母国語とするものもいるが、英語を母国語とするものもいる。二つの言葉を何の問題なく扱えるものもいるが、どちらの言葉も母国語でない私のようなものもいる。研修はフランス語か英語で同時通訳を利用して進められるが、二つの言葉が入り組んでの説明会であり、誤解が生じやすい。同時通訳もフォローできないことがあり、私にとっては説明や質問の意味が理解できないことも多々ある。

人種も、白人から、アラブ系、インド系、アジア系、黒人と様々であるが、アフリカの黒人でも顔つきと体格が様々である。仲良くなったボツワナ出身のM氏によると、南のアフリカ人と比べて、西アフリカ人の方が体格が良いという。また、ナイジェリア出身のJさんはナイジェリアの北部の出身であり、所謂一般の黒人よりも色が白い。宗教も南部はキリスト教が多いそうだが、Jさんはイスラム教であり、ブルカをまとっている。

研修前は英語ができれば問題ないと言われたが、それは今では間違いであることを認識した。本当の意味でのコミュニケーションを図る為には、フランス語の習得は欠かせない。40歳を過ぎてから、新しい言葉の習得は難しいが、出来るだけチャレンジしてみたいと思う。

単独飛行




日本の会社を退職する際に上司からもらった本がある。ロアルド・ダールの『単独飛行』という本である。『単独飛行』は、ロアルド・ダールが入社した石油会社シェルの辞令で東アフリカへ派遣されてから、第二次世界大戦における空軍パイロット時代を経て、負傷のため本国に送還されるまでの三年間を描いたものである。

私は妻・娘、両親、兄の家族に見送られて、日本を発った。アフリカへの移住なので100KG以上にもなる荷物を6つを持って。羽田からは01:30発のJL041便でパリに。パリからは13:00発AF2584便でチュニジアに向かった。飛行機の中ではロアルド・ダールと自分の気持ちを重ね合わせた。

飛行機から見下ろせた地中海の海は美しかった。強い日差しが海を反射してまぶしかった。地中海からアフリカ大陸が見えた時には感動した。これが自分が目指している大陸なのかと。

ダールは自分が訪問したい場所は強い意志を持って自分で選んで行ったようだ。その背景にはいつも母親の愛情の支えがあった。私も、両親から溢れるくらいの愛情を受けて育った。現在は妻と娘からも愛され、12歳の娘に対しては、私が両親から受けた以上の愛情を注いでいる。アフリカに行くことを伝えた時には娘に泣かれ、心が張り裂けるような気持になった。こんなに恵まれた環境なのにアフリカへの移住を強引に決めてしまった。我儘な生き方であると自分でも思うが、ダールのような人生に憧れた。

これからは国際機関において、アフリカのあらゆる国に訪問する事になるだろう。しばらくは、人生の折り返し地点に差しかかっての『単独飛行』であるが、娘の受験が終わり、一貫教育の中で、落ち着いた頃には『家族飛行』になればよいと心から願っている。

アフリカへの移住

1年前まではアフリカに移住するとは夢にも思わなかった。大学を卒業して17年以上が経ち、人生では折り返し地点に差し掛かっていた。「40にして惑わず」と孔子は語ったようだが、自分にはできなかった。30後半でカリフォルニアのMBAを卒業して、日本の民間企業に戻り、数年働いていたが、10年後の自分を想像できず苦しんだ。そんな時に、日経新聞で、某アフリカの国際機関が就職説明会を東京で開催するとの記事を目にした。日本人職員を増やすという目的のようだ。国際機関は以前から興味があったので参加してみた。

説明会において、「アフリカの皆は目を輝かせながら仕事をしている」という日本人理事の一言で、アフリカに興味を持った。そういえば、5年前に通信の仕事で初めて訪問したアルジェリアも急成長していた事を思い出した。

今回のアフリカの訪問は今年で3回目。国はチュニジアである。1回目はGWにチュニジアに訪問し、カナダ人の局長に対して、就職の直談判をしに行った。帰りのフライトの直前に、アメリカ人の職員とチュニスのDowntownで食事を終えた後、車に戻った際にスーツケースとリュックサックの全てを盗まれていることに気がついた。ドアの鍵がこじ開けられていた。同年1月の革命の後で治安が悪化していたようだ。 幸いにパスポートとチケットは身に着けていたので帰国はできた。

2回目の訪問は7月。同機関における面接の為に訪問した。面接において自分の気持ちを正直に話した。「私はアフリカを援助の対象と見ていない。これから成長する市場として見ている。今日はアフリカに対して、自分の人生をかける為に日本から来た。」この一言で採用してもらったのかもしれない。

今回はいよいよ移住である。日本の会社において退職の挨拶をした時には心が震えた。今まで守られていた日本における地位や年収を捨てて、アフリカに移住しなければいけないと。仲間とも別れなければいけない。そして家族ともしばらくお別れである。