2013年12月28日土曜日

タクスイム広場におけるデモ  

イスタンブール新市街の中心地であるタクスィム広場。現在、ここにはクリスマスツリーが飾られ、そのイルミネーションが煌々と輝いている。 

金曜日の本日、夕刻時にその広場を横切ろうとした時のこと。警察隊が数十人単位で配備されている姿が見えた。明らかに重々しい雰囲気であり、異常事態であることを悟った。

その警察隊を迂回するように、広場から大通りに向かおうとしたところ、大通りにはデモ隊のような人々が見られ、救急車らしき車が数台止まっていた。 何が起きているか近くのトルコ人に聞いてみたところ、政治的なデモ隊と警察が衝突したという。少し遠方では、今まで見たこともないような青い花火がゆっくりと落下していた。近くではテレビ局のレポーターがカメラに向かって実況していた。事態は沈静化しつつあるようにも見えたが、私は家族に促されてホテルに戻ることにした。 

ホテルでインターネットにアクセスし状況を確認する。アルジャジーラの情報によると、デモ隊は閣僚の汚職事件に対して抗議し、警察隊がその拡大を阻止する為にデモ隊を広場から駆逐したという。BBCの情報によると、その過程で催涙弾や、水が放たれたという。私が広場に訪問する少し前の出来事であると思われる。また、青い花火はデモ隊によって投げこまれたことを知る。

トルコではエルドアン政権の閣僚の数人が、建設事業を巡る汚職事件に関与したとして、閣僚の息子など80人以上が拘束されたことに対し、政権側が警察の幹部らを更迭するなど報復とみられる措置に出ており、政治の不安定化が懸念されているという。昨日、エルドアン政権がそれに終止符を打つべく、閣僚3人の辞職を発表したようだ。本日のデモはその汚職に対する抗議のようである。 

2003年にエルドアン首相が就任して以降、イスラム教の伝統的価値観を重んじながら、経済発展が実現されてきた。しかし、今年6月にはその政治手法が強引だとして大規模な反政府デモが各地に広がるなど不満の声も上がっている。首相のイスラム化の動きに対して世俗主義による反発があるということであろう。 

これらの動きを受けて本日、ドルに対してリラ安となったようだ。そういえば、本日の午後、両替場にて、昨日、205リラ/ドルだったTTBが、212リラ/ドルとなっていた。リラ安の理由が気になっていたが、本日の一連のニュースを知って納得である。

いずれにせよ、年末のトルコにて、これ以上、状況が悪化しないことを祈っている。

【参考資料】
http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-25525923
http://www.aljazeera.com/news/europe/2013/12/lawmakers-resign-amid-turkey-fraud-scandal-201312271460679884.html
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131221/k10014015741000.html

2013年12月27日金曜日

イスタンブールの世俗主義 

クリスマスのイスタンブール。新市街の中心であるタクスィム広場では、白のイルミネーションで輝くクリスマスツリーが眩い。どうやらこの世俗国家は資本主義の波に襲われてるようだ。街には、伝統的なカフェやレストランと共にバーやクラブ、そして、BurgerKing、KFC, Starbucks、PizzaHut等の西側の店舗が立ち並ぶ。ブルカやヒジャブを纏う女性はほとんどいない。チュニジアとは様相が異なり、ここは本当にイスラム教国かと疑いたくなる。

かつてはこの都市はコンスタンティノポリスと呼ばれ、ビザンチン帝国やオスマン帝国の首都であった。市域がバルカン半島のヨーロッパ側と、アジア側の両方あり、特徴的な様子を浮き彫りにしている。東西文明の架け橋となっており、ヨーロッパ、北アフリカ、中東アジアとの交易地として栄えたという。現在でもボスフォラス海峡には数々の大型船舶が浮かび、貿易で栄えた様子が垣間見れる。この都市の壮大さは、チュニジアがビザンチン帝国とオスマン帝国のあくまで一周辺国であったことが実感させられるほどである。


本日、トルコ観光として欠かせないアヤソフィア博物館に訪れた。近年までモスクとして利用されていたが、元々は東方正教会の聖堂であったという。この聖堂は350年頃、ビザンチン帝国のコンスタンティヌス2世により建設がはじまり、2度の焼失を経て、6世紀中頃に現在の基盤となった。1520年にセビリアの教会が建てられるまでは約1000年間、世界最大の教会であり、東方正教会のメッカであったというから驚きだ。ガイドによると、当時は、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、ロシアから多くの信者が訪れ、この聖堂は現在のバチカンのような存在であったという。1453年にオスマントルコがコンスタンチノープルを征服してからイスラム教のモスクに転用された。

かつてキリスト教の聖堂であった面影は今でも残されている。正面入口の『キリストと皇帝』のモザイク画にはイエスに跪いている皇帝の姿が描かれている。ガイドによると、その姿は皇帝が献金を捧げている様子であり、献金をすることによって教会の歴史に刻んでもらったという。しかし、その説明には疑問が残る。むしろ、教会が絶対的な力を誇示する為に、皇帝を利用したのではなかろうか。あまりにも皇帝の姿がぶざまである。

更に聖堂の奥に入っていくと、壁側には十字架が描かれており、天井の半ドームには聖母マリアが映し出されている。チュニジアでも見ることができるビザンチン時代の特徴である幾何学的なモザイク画も見受けられた。一方で壁には多くのイスラム教の装飾やアラビア文字が加えられているが、かつてのキリスト教の面影と混在しており、正直、教会なのかモスクなのか見分けがつきにくい。

ビザンチン帝国の傘下にあったチュニジアが、7世紀にアラブにイスラム教化されたのとは対象的に、トルコは長い間キリスト教の歴史があり、イスラム教の歴史はけっして長くはない。アヤソフィアに隣接するスルタンアフメト(ブルーモスク)は1617年に建造されている。現在はイスラム教徒が99%以上を占めるトルコであるが、オスマン帝国時代には他宗教にも寛容であったようである。オスマン帝国は第一次大戦の敗北を契機に崩壊したが、1923年にアタチュルクを首班とする正教分離のトルコ共和国が建国され、イスタンブールは世俗国家の首都してスタートしたという。

チュニジアもフランスによる保護領時代の影響もあり、世俗主義を標榜しているが、イスタンブールと比較する限り、その様相は異なる。トルコでも世俗主義に対する反発はあるものの、緩やかな世俗社会が形成されているのは、その歴史課程による影響なのだろうか。それとも近年押し寄せてきている資本主義の波に飲み込まれつつあるからなのであろうか。久しぶりにKFCのフライドチキンをほうばり、クリスマスツリーを眺めながら、その異なる歴史について考えさせられた。

【参考資料】
Hagia Sofia Museum Guide
http://www.assetmanagement.hsbc.com/jp/attachments/monoshiri130901.pdf
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2

2013年12月25日水曜日

ギリシャ経済危機

近代的なアテネの空港に到着し、ダウンタウンのホテルに向う途中の重厚な高速道路のレベルには驚かされる。途中のトンネル内ではまるで首都高を走っている錯覚に陥いるほどである。これらの比較的新しいインフラは2004年のオリンピック時に整備されたものなのだろうか。

繰り出した街ではクリスマス前の街並みが華やかであり、ライトアップされたパルテノン神殿が眩しい。店舗でもギリシャ人のセンスの良さを感じる。雑貨や洋服は世界中から良いものを集めている様子がわかる。通り過ぎる人々もファッショナブルである。食事もふんだんにレモンと蜂蜜を使ったサラダや、塩トリフを隠し味に使っているパスタ等、高いレベルを感じた。何よりも人々が意外と落ち着いている様子に安堵した。これがつい最近まで債務不履行(デフォルト)する可能性があった国なのか疑いたくなる。

一方で、街をよく観察してみると、不安定な要素も垣間見られる。街中のいたるところでスプレーで吹きつけられた落書きがあり、警察の数も多い。街角には必ずと言っていいほど、宝くじが売っている。経済難がゆえに一攫千金を夢見ている人々が多いのか。実際、人々は買い物を楽しんでいるものの、ほとんどセール商品しか手をつけていない。高級店では人がまばらである。

ギリシャは2009年の末から、経済危機に見舞われている。信用不安から国債が暴落し、株価が大幅に下落した。欧州連合(EU)や国際通貨基金(IMF)は緊縮措置や民営化を求めており、政府は痛みを伴う改革を進めようとしているが、国民との綱引きは現在でも続いている。2014年には再び財政不足に陥る可能性もあり、未だに予断は許さないという。

この経済危機は複合的な要因によるものだが、長年に及ぶ、身の丈に合わない年金制度、公共事業拡大、公務員の雇用拡大、汚職等による徴税能力の低さが主な原因のようだ。前述した高速道路や壮大なアクロポリス美術館も過剰投資に見えてしまう。公務員は労働人口の25%に達するという統計もあり、日本の5%程度と比較して、大きな政府であることは明白である。また、安定議席を確保していないという理由もあるだろうが、危機にも関わらず、指導者が断固としたリーダーシップを発揮できず、総選挙によって国民に真意を問うような状況に陥っている。1998年のアジア危機時に韓国がIMFの融資を受けた際に、金大中が国民に緊縮財政の必要性を説いた対応とは大きな違いがある。

一方で、この経済危機はユーロ通貨制度の構造的な問題によるものと指摘する経済学者もいるようだ。ユーロ加盟国は独自の金融政策を打てず、財政支出が増やせない為に景気浮揚策は乏しい。更に、本来は競争力の弱い国は貨幣を切り下げるが、それが不可能な為、資産価値上昇により金利が上昇する傾向にあるという。今回の問題は低金利で調達した欧州北部の資金が、高金利を求めて欧州南部に流入(キャリアトレード)し、バブルが発生した為と指摘している。単一市場内での競争力の格差が問題の本質であるという。

古代ギリシャにおいて、共同体であるポリスでは自足自給を目的としており、あくまで貨幣とは等価関係の物を交換する為の媒体に過ぎなかった。それが現在では誤ったグローバリズムや、行き過ぎた資本主義や金融化により、貨幣が投機的な目的で利用されている。ギリシャにおいては、ポリスの理念に従い、身の丈に会った実体経済の確立が経済危機の回避方法といったところなのだろうか。

2013年12月24日火曜日

アテネからチュニジアがみえる

クリスマスイブのアテネ。表参道や青山の町並みに似ているKolonakiやPlaka 地区では買物や食事をする地元の人々で溢れ返っている。各店舗にはポインセチアの花が飾られ、レストランではアコーディオンとタンバリンを持った二人組がジングルベルを奏でている。夕方に近づくにつれ、教会や樹木に飾られたイルミネーションにより幻想的な雰囲気が醸し出されている。

この国はギリシャ正教を母体としたキリスト教国であるが、クリスマスの街の雰囲気はアメリカや他のヨーロッパ国々とあまり変わらない。イスラム国のチュニジアから訪問した私はその異なる雰囲気を意識せざるを得ない。

この地区から歩いて10分程度のところに、オリンピアのゼウス神殿、そしてハドリアヌス門がある。そして、その門を通して、アクロポリスの高台にあるパルテノン神殿が映し出されている。昼間にこの地域に訪問したが、この国はかつては多神教であるギリシャ神話を信仰していたことがわかる。

現在は柱廊とわずかな天井しか残されていないそのゼウス神殿であるが、かつては古代ギリシャで最大の神殿であったという。その壮大さには畏敬の念さえ感じることができる。その神殿は紀元前500年ごろに工事が開始されたが、最終的にはローマ皇帝のハドリアヌスがAD129に完工させたといわれている。ギリシャをこよなく愛したハドリアヌス帝は自らを神格化する為に、金と象牙でつくられた巨大なゼウス像に隣接するかたちで、自らの像を並べたという。

思えば不思議なものである。かつてはギリシャもチュニジアもローマ帝国の一部であった。アクロポリスやゼウス神殿の建物は、チュニジアのドゥッガやウティナの遺跡と酷似している。チュニジア、イタリア、そしてギリシャの遺跡を訪問すると、かつては同じローマ帝国の域内であったことが実感できる。

さて、このハドリアヌス帝であるが、在位中は平和な時代を築き上げ、数々の大型なインフラを推し進めた。チュニジアにおいてもザグアンからカルタゴまで132kmの水道橋を推進し、そして、マルガの貯水場を築いた。カルタゴではアントニヌス帝が完工した共同浴場が有名であるが、ハドリアヌス帝が水のインフラを構築しなければ、この実現はありえなかった。

その後、AD395年にローマ帝国は東西に分裂し、ギリシャもチュニジアも東ローマ帝国に属すことになる。そして、チュニジアは7世紀にはイスラム教徒であるアラブ人に征服され、イスラム教国として歩みを始める。異なるイスラム王朝による統治が続いた後、1574年にオスマン帝国によって征服され、その後のベイによる統治も含め、オスマン帝国の影響下に300年おかれた。一方でギリシャは、1453年に、東ローマ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされた後、400年近くオスマン帝国による統治が続いた。

両国はオスマン帝国の影響下に置かれた歴史を共有するが、チュニジアがイスラム教国として地位を確立したのに対して、ギリシャはキリスト教からイスラム教に改宗することはなかったという。その理由としては非イスラム教徒には人頭税が課税されていた為、大幅な税収の減少を恐れたオスマントルコがそれを望まなかったという。

かつては地中海諸国は同じ国として存在しており、共通の文化を擁していたが、現在、国の形態と文化は大きく異なり、ヨーロッパと北アフリカは分断されているようにさえ映る。それは、海という自然境界によって分離されているというよりは、宗教と国の運営方法によるものといってもよいのではなかろうか。この度、北アフリカからヨーロッパに訪問して、かつての共通点と、現在の相違点の差異を強く感じ、この20世紀の間に時代が逆行したのではと思ったほどである。

【参考資料】
http://www.athensinfoguide.com/wtsarch.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Temple_of_Zeus,_Olympia

2013年12月22日日曜日

ネルソンマンデラを偲ぶ

アフリカではネルソンマンデラの死を悼しむ様子が続いている。死去から既に2週間以上が過ぎたが、新聞、雑誌はこぞって特集を組み、同氏の偉業を称えている。

私は同氏が亡くなった12月5日にケニアにいたが、その反応は凄まじかった。その悲報はあらゆるメディアを通して、瞬く間に人々に伝えられた。

翌日にアフリカ人の友人達と食事をした際のこと、年輩のルワンダ人がマンデラのことを名残惜しそうにしていたのが印象的であった。

その金曜日の食事はルワンダ人、ケニア人、ウガンダ人、日系アフリカ人の間で親睦を深めるために行われたが、飲酒も手伝ってか、それぞれが本音で話しをする会となった。マンデラの悲報と共に、アフリカの各諸国の宗主国からの独立の話題が大変興味深かった。その3カ国が植民地から独立したのは1960年代前半であり、その年上の友人が、子供の頃は宗主国の植民地下にて育ったというのは驚きであった。

それらの話を聞いて、アフリカの独立運動とはさほど遠くない過去の出来事であり、特に上の世代のアフリカ人にとっては、マンデラのアパルトヘイト撤廃運動とは宗主国からの独立運動と重なるようである。そして、白人支配からの脱却に貢献したという思いが強いという印象を持った。

さて、そのルワンダ人によると、ネルソンマンデラは27年を獄中で過ごし、大統領として在籍期間はわずか4年であったという。それと対比して、ウガンダのムセベニ大統領は4年間服役し、27年間大統領として君臨している。その友人は、ムセベニ大統領と比較して、マンデラの人生の悲惨さを嘆いていたが、同時に、長期の服役に対しても屈しなかった精神を称えていた。

収監中、マンデラは学ぶことを決して諦めず、仲間同士でグループをつくっては、ソクラテスを研究するセミナー等を行い、公正で平等な社会を実現するために議論を重ねた。そしてその間、南アフリカ大学の通信課程により、法学士号を取得している。また、マンデラは他の政治犯の服役者にも学ぶことを奨励したという。

そしてそのマンデラが残した名言。「監獄で27年も過ごせば人生は無駄になったと人は言うかもしれない。だが政治家にとって最も重要なのは、自分の人生をかけた理念がまだ生きているかどうか、その理念が最後には勝利しそうかどうかだ。そして、これまで起きてきた全てのことが、我々の犠牲が無駄ではなかったことを示している。」

現在、南アフリカでは、ブラック・ダイアモンドと言われる中間層が育っている。彼らは高い教育と知識を擁し、自信に満ちている。アパルトヘイトが撤廃されたのは90年前半の出来事であり、これらの新たな層が育ってきたのはわずか最近のことである。つまり、マンデラの不屈の精神と学ぶ姿勢が無ければ、アパルトヘイト撤廃は実現せず、これらの希望に満ち溢れる中間層は育っていなかった。改めて、マンデラの偉業とその精神に対して敬意を表したい。

 

2013年12月18日水曜日

『グリーン革命』と『フラット化』~地熱発電~


トーマス・フリードマンが『グリーン革命』(英語名:Hot, Flat, and Crowded)を2008年に出版してから、既に5年以上の月日が過ぎた。グリーン革命とは、現在の化石燃料を使った社会システムを、クリーン燃料(太陽力、風力、水力、潮力、地熱)を利用した社会へ変革することである。

フリードマンは2006年に発行した『フラット化する世界』(英語名:The World is Flat)のベストセラーで名高い米国のジャーナリストであるが、その視点は鋭い。同書では、ITの飛躍的な発展により、インドや中国がグローバルな競争に参入している様子を描いた。この本で強烈な印象が残っているのは、アメリカのドライブインにて注文を受けつける機械からの声が、実はファーストフードの店員ではなく、はるか海を越えたインドにいるオペレーターのものであるというものであった。いかにコストを追求する為にグローバルリゼーションが進んでいるかを描いたものである。

余談であるが、当時、私はアメリカで学生をしていたが、授業の課題でこの『フラット化する世界』を読んだ。フリードマンの本の内容を確認するべく、ドライブインで注文する度にオペレーターに対して『ところで貴方はどこにいるのか。インドか?』とマイクに叫んでみたが、私の質問はことごとく無視されたことを覚えている。

そして、その後、米国ではリーマンショックが起こり、アメリカの金融業と不動産業は大きく後退した。『グリーン革命』が出版されたのはその頃である。グリーン革命とは、オバマ大統領が主張する「グリーン・ニューディール」に沿ったものであり、新たな産業と雇用を生み出すための呼び水であると言えよう。本の中では、中国とインドの台頭により、資源争奪戦がこれまで以上に激しくなりグリーン革命を遂行しないと豊かな生活が続かなくなることを強調している。

さて冒頭に述べた通り、この二つの本が出版されてからしばらくの年数が経ったが、世界は益々フラットになった。一つの例としては、現在、アフリカに住んでいる私であるが、世界中の友人とFacebookで繫がっている。数年前に今後しばらく会うことがないだろうと別れた友人達の食事の内容がアップされたり、飲み会の写真が映し出されたりする。あまりにもフラット化しすぎて少し距離を置きたい時もある。このブログも世界中の皆様が読んでいるようで、フラット化の恐ろしさを感じる。

一方で、あれほど強調されていたグリーン化は進んでいるだろうか。正直、飛躍的にクリーンエネルギーが増えたという実感はない。2011年3月11日に起こった東日本大震災によって、日本の全ての原発が停止したが、新たに増設した発電所はガスタービンが主であり、日本は貿易赤字を抱えるほど、化石燃料の輸入が急増した。また、ドイツやスペインにおいてはクリーンエネルギーの固定買取り制度が崩壊し、世界的に有名なソーラーパネルの数社が倒産に陥ったほどである。

理由は何故であろうか。フラット化と対照的にグリーン化は基本的にはコスト増であり、たとえ制度化したとしても多大な補助金を導入せざるを得ない。その脆弱性を露呈したのが、ドイツやスペインの固定買取り制度であろう。風力発電のようにコスト的に競争力がある発電も出てきたが、風力発電はベースロードではなく、補完する発電が必要となる。それは結局、最終消費者にコストが上乗せされるか、又は納税者が払う補助金で支えているに過ぎない。

さて、それでは、クリーンエネルギーの中で化石燃料を経済的に上回る発電方法は無いのであろうか。実は私は地熱発電がその数少ない手段であると思っている。

地熱発電とは、地下の熱源にて生成された水蒸気により、蒸気タービンを回すことによって発電する方法である。地下の熱源がボイラーの役割を提供しており、化石燃料を利用する必要がなく、二酸化炭素の発生が少なく、環境に優しい発電方式である。火山活動が多い国で主に活用されており、当然ながら日本もそれに該当する国であるが、大規模な利用に至っていない。最近では国立公園に関わる規制の緩和も進み、地熱発電の稼働に向け徐々に計画が進められているようだ。

ちなみに海外では地熱発電の利用が進んでいる。ケニアにおいても30年以上稼働している蒸気タービンがあり、今でも高い稼働率を維持しているという。ご参考までにケニアの地熱発電の固定買取価格(FiT)は米国ドル8.5セント/Kwhである。これは、3.5セント/Kwhの蒸気価格と5セント/Kwhの発電コストからなる。蒸気の発掘に関してはリスクの観点から無償資金や譲渡性の高い融資に依存している場合が多いものの、この発電コストは市場で十分競争できる価格である。しかもベースロードである。

実は地熱発電、特に大型の蒸気タービンは日本製が世界の市場を席巻している。上述したケニアの蒸気タービンも日本製である。また、日本製は蒸気によって発生する錆に強い工夫を凝らした金属や、蒸気と熱水を分離する際の細かい技術を擁しており他国のメーカーを圧倒しているようだ。

クリーンエネルギーの利用拡大には、日本の高い水準の技術が不可欠であろう。是非、日本の事業者やメーカーには世界的な『グリーン革命』の“フラット化”に寄与して欲しいと切に願う。

2013年12月16日月曜日

日中関係を考えてみる

『21世紀は中国の時代』と呼ばれて久しい。過去数十年間における経済成長は目覚ましく、現在、アフリカで大きな存在感を示している国である。しかし、昨今、日中間の関係が悪化していることに強い懸念を覚えている。

最近、中国に長い間住んでおり、中国の政治経済に詳しい友人と食事をする機会があったが、彼曰く、現在、中国国内では様々な問題を抱えており、その国家運営は一筋縄でいかないという。

その友人によると、中国は雇用の確保を目的として、社会の安定化を計るためには、経済成長は不可欠であり、2008年のリーマンショック以来、内需拡大によって、その目的を達成しようとしているという。その結果、中国政府は全国の地方行政や国有企業に巨額の資金を投入し、それらの資金がインフラ整備に回された。そして、そのうちのかなりの資金が投機に回り、不動産バブルが発生しているようだ。

現在、北京の平均月収は5000元(約8万円)であるが、平均の土地価格は平米あたり、4万元弱(約60万円)まで上昇しているという。50平米の土地が平均で3000万円もすることになり、平均年収の30倍以上の価格になっているという。庶民にとってみればマイホームは夢の夢となっているようである。また、環境問題や大気汚染が深刻化しており、北京の出身者でさえ、地方に脱出する人が増えているとのことであった。

現在、中国政府は引き締め政策を行っているようだ。バブルが崩壊しないように軟着陸させようというのが本音であろう。今後は高成長がなくても、社会を如何に安定化させるかいうのが大きな焦点と思われる。しかし、以前のような高成長がなくても、中間層が育ってきている中国は国家運営が行うことは出来るかもしれない。

一方で、最近の中国政府による言論の引き締め傾向に対して国民は不安を覚えているという。習近平の毛沢東主義への回帰する姿勢も様々な波紋を呼んでいるようである。このような背景もあり、共産党が国民の目を国外に向けさせる為にも、日本に対する強硬な姿勢を崩さないのは否めない事実であるようだ。

これらの社会不安の解消と軟着陸が出来なかった場合には、『第二の文化革命』の再来を予想する悲観論者もいるようだ。文化革命の起こった背景には、全土に及ぶ飢餓や、ソ連との関係悪化等の社会不安並びに外交上の問題があった。文化革命によって、ソ連の技術者は撤退し、また、教育の低下により中国における技術的な発展は10年間も停滞した。中国人の中には今回の日本との外交関係の悪化が、当時の文革前のソ連との関係を彷彿する人もいるようである。また多くの良識ある中国人は日本との良好な関係を望んでいるようだ。

振り返ってみると日中の関係はつい最近まで非常に良かった。1972年の 日中国交成立以来、これだけの年月をかけて構築した日中間が悪化するのは残念でならない。私の幼少の頃は上野動物園のランラン、カンカンに代表されるように、日本と中国の外交関係は希望に満ちていた。個人的にも、80年代には、交換留学制度により、実家に中国の留学生がしばらく泊まったこともあり、彼とは30年近く、家族ぐるみの付き合いである。

また、私が以前働いていた商社の仲間は、80年代、90年代に中国にて語学研修を行い、その後、中国に駐在をしているものも多い。その商社は中国語を話せる職員が500名以上もおり、中国にどっぷり浸かっている企業であるが、同期の友人の結婚式に中国人の友人がわざわざ東京まで駆けつけて、中国語で祝福の歌を披露してくれたこともあった。

昨今の反日運動で多くの日本人が中国に対して気持ちが離れたのは事実だろう。この度、良識ある多くの中国人がいることを忘れてはいけないと思った次第である。

アフリカの奇跡 ~ケニアにて~


『アフリカの奇跡』とはケニアでマカデミアナッツの事業を起こした佐藤芳之氏の自伝である。24歳でアフリカに渡り、年商30億円規模のビジネスに育て上げたストーリーである。

1963年東京外国語大学を卒業した佐藤氏はガーナ大学に留学し、ケニアにて日系企業に勤務した後、マカデミアナッツ社を起業する。まだ宗主国から独立してから間もない頃のアフリカ大陸に単身で渡り、一から会社を立ち上げるということは、現在の感覚からは想像もできないほどの苦労があっただろう。そしてそれを二人三脚で支えた奥様の佐藤氏に対する真摯な助言と、ビジネスに対する洞察力は興味深かった。

『アフリカの奇跡』はケニアに訪問する際に熟読しようと日本から持参した本であるが、先週、その機会に恵まれた。そして、ケニア行きのエメレーツ便で同書に読みふけっていると、フライト・アテンダントがワインと共に暖かいナッツを運んでくれた。丁度、マカデミアナッツ社がエメレーツ便に同社の商品を納入しているとのフレーズを読んだ直後だったので、そのタイムリーな偶然に驚いた。確かにこのナッツは美味い。酒のつまみに最高である。

その後、ケニアの空港に到着し、ホテルの送迎車の中で、運転手から「Out of Africa」というパッケージに入っているナッツを提供された。製造元を見たところ何とマカデミアナッツ社の商品であった。運転手によると、ケニアの名産物の同商品を外国人に提供するのは『Welcome to Kenya』という意味合いであるという。隣に座っていた同僚のウガンダ人に対して『このナッツの会社は日本人が立ち上げた会社だぜ』と説明すると、同僚は驚いていた。日本人のアフリカにおける活躍が誇らしかった。

さて、私にとってはケニアは初めての訪問であり、同国は好印象であった。イギリスに統治された影響なのか、元来のものなのか分からないが、ビジネスパートナーでも、ホテルやレストランのサービスでもケニア人とは相手の気落ちをくみ取れる教養のある人々であると感じた。若干、そのあたりは、北アフリカよりもレベルの高さを感じた。また、公園や高級住宅街等の街並みは緑に溢れ秩序だっており、駐在するのであれば最高の国だと思った。しかし、治安が悪いのが若干気になるところである。

ケニア滞在中には、かつて日本で共に働いていた先輩に10数年ぶりに会い、旧交を温めたが、その先輩は佐藤氏をよく知っているという。改めて世の中の狭さに驚いた。先輩によると、現在、佐藤氏は会社の経営は後継者に託し、微生物技術を利用した水を使わないトイレのビジネスを手がけているという。マカデミアナッツ社において現地の雇用と福利厚生の拡充を最優先していた佐藤氏であるが、現在でもアフリカ人の為にソーシャルビジネスを目指しているようである。


ナイロビ国立公園にて
   ちなみに、『アフリカの奇跡』によると、佐藤氏がアフリカにおいて歩みを始めようと思ったきっかけはタンザニアの国立公園にてキリンの一家に遭遇し、その“素”のままで歩き続ける姿に感銘を受けたからであるという。

私は、週末にその光景にふれるべく、ナイロビ国立公園にてキリンを観察しに行った。国立公園内で、車で探索すること1時間、やっとキリン一頭を見つけた。車のエンジンを切り、その様子を長く見守る。大草原にて、キリンが堂々として歩む姿は誠に優雅であり、まるでスローモーションのように時が流れる感覚に陥った。そして、あたりには涼しい風が吹き渡り、まるで日頃のせわしない生活により磨耗している心が洗われるようであった。

これこそが東アフリカの魅力なのであろうか。早くもその魅力に吸い込まれそうである。

2013年11月4日月曜日

坂の上の雲~旅順攻囲戦~

『坂の上の雲』とは、明治の時代に封建の世から目覚めたばかりの日本が、登って行けばやがてはそこに手が届くと思い登って行った近代国家や列強を例えたものという。

日本特有の精神と文化が19世紀末の西洋文化に対しどのような反応を示したかを正面から問いかけた作品であると言われている。以前、司馬遼太郎の小説は読んでいたが、夏休みの間に、収録したテレビ番組を日本を想いながら海外で見ることによって異なる感慨を覚えた。

主人公は松山出身の秋山好古、秋山真之兄弟と正岡子規であり、番組では3人の生き方と、日本の未来に向かっていく希望に満ちた時代背景が描かれている。

しかし、日本が近代国家になる道のりは険しかったようだ。清国とロシアという隣国の脅威に晒され、国家一丸となってその脅威から防衛する必要があった。そのような意味で、『坂の上の雲』の“坂”の象徴とは、日露戦争時の『旅順攻囲戦』であるかと思っている。そこでは陸軍の第3軍が1万6千人の死者と、4万4千の戦傷者(延べ数)を出した末に、ロシア陸軍に勝利している。この203高地も含むこの旅順要塞の攻略がなければ、旅順港のロシア艦隊とバルチック艦隊の合流を許し、制海権はロシアに奪われ、日露戦争はロシアの勝利に終わっていたであろう。

歴史に“もし”という言葉はないが、旅順の勝利がなければ、日本はロシアの影響下に置かれ、第二次世界大戦後は東欧のように共産化されていたかもしれない。『旅順攻囲戦』が日本の近代史の大きな岐路であったのは間違いない。

さて、この陸軍の第3軍の戦術に関してであるが、多くの死者を出したことで数々の失敗があったと非難されている。また、司馬遼太郎自身も否定的にとらえているようだ。但し、その評価については様々な議論が行われているようだ。

その主な非難は早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずだという批判である。

その反対論としては、要塞の攻略に必要なのは、どの地点を占領するかではなく、どの地点で効率よく敵軍を消耗させることができるかにあるから、203高地を主攻しなかったことをもって第3軍をを批判することはできないという考え方である。実際、203高地を占領した後、旅順要塞が陥落するまで約1か月を要しているという。仮に、当初から203高地の攻略を第1目標に置いたとしても、被害の拡大は避けられれず、反撃射撃や予備兵力による逆襲を考慮すべきであるという。

非難の情報源は1909年に陸大の谷教官が書いた「谷戦史」が、太平洋戦争後の昭和40年代に「機密日露戦史」という題にて出版されたものといわれている。司馬遼太郎はこの本を参考にして『坂の上の雲』の旅順攻囲戦を描いた。しかし、この「機密日露戦史」は、実際の当事者である3軍参謀部(伊地知幸介、大庭二郎、白井二郎)による記録がなく、一方的見地に偏った資料であり、誤りも多いという人もいるようだ。

事実としては、近代の日本は攻城戦の経験が少かったようだ。そして、当時、乃木希典大将は、何年も現役を離れていて、戦争の直前に復職したばかりだった。又、参謀長の伊地知幸介は、軍司令を補佐することも、若い参謀たちを掌握することもできなかったようだ。実質的には、参謀副長の大庭二郎がその任務に当たったという。

先日、日本から年老いた母が訪問した際に『坂の上の雲』の話をした。母の家系は代々陸軍の士官が多いが、大庭二郎は私の高祖伯叔父にあたるという。その関係を理解するのに時間がかかったがつまりは遠戚のようだ。大庭は日露戦争の際に、当事者として『大庭二郎中佐日記』という記録を残しているようである。歴史の真実とは見る者によって異なるようであるが、日本に帰る際にはその文献を探して読んでみたいと思う。

【参考資料】
坂の上の雲 (旅順総攻撃、203高地、日本海海戦)
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8_%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%B9%83%E6%9C%A8%E3%81%AE%E8%A9%95%E4%BE%A1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9B%B2
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120105/1325764507
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E4%BA%8C%E9%83%8E

2013年11月3日日曜日

帰国子女の親として


帰国子女とは、親の赴任等に伴い、海外生活を幼少期に経験した子供達である。訪問した国における学校体験にもよるが、早い時期から外国語や異文化を経験しているので、一般的には『外国語』が優れていたり、『国際感覚』を擁しているといわれている。

一方で日本で教育を受けていない時期があるので、日本語の読み書きに問題があったり、日本の常識を兼ね備えていないことがあるのも事実であろう。

帰国子女の親の立場としては、この利点を伸ばしてあげることと、弱点を克服する為に子供に何ができるか悩むのが共通の思いではなかろうか。海外体験は素晴らしい機会になるかもしれないし、場合によっては日本語も外国語も中途半端になる可能性もあり、親にとっては気が気ではない。また、帰国時にはいじめの対象にならないか等、学業以外でも心配することもある。

私の場合は、子供が帰国子女であり、この問題は他人ごとではすませられない。また私自身は帰国子女ではないが10代の時に留学経験があり、海外で働きノンネーティブとしての英語の壁を常に感じていることもあり、大変重要なテーマである。

かつて、高校の一時期、アメリカの大学を目指した時期があり、SATを受験したことがあった。そのテストは難しく、箸にも棒にもかからずがっくりした思い出がある。受験会場の国際基督教大学(ICU)において、試験後、同世代の帰国子女達が『It was not so bad』と流暢な英語で話しているのを聞いて2重にショックであった。やはり、1年間留学しただけでは、何年も海外に住んでいた帰国子女には英語の面で太刀打ちはできないと強く感じた。帰国子女が羨ましいと思ったほどである。

しかし、帰国子女といってもその海外体験により、外国語の習得度に大きな個人差がある。また、帰国後の教育方法によって、その後の外国語の発展に大きな影響を及ぼす。かつては、小・中学校で帰国した子女達にとって英語の力を伸ばすような塾や学校は少なかった。しかし、現在は、帰国子女用の英語専門塾や特別英語クラスを保有する中・高も現れており、そのレベルは高まっている。

実際に子供が小学校高学年の時に、帰国子女用の塾に通わせたが、その集中度はすざまじかった。その塾は帰国子女用の中・高受験を目的としているが、週に2~3回の授業で撤退的に英語の読み書きを習得させる。現在、子供が再び海外の高校で対応できているのは、かつての米国の初等教育の経験とともに、その塾で鍛えられたことが大きいと思っている。

現在、日本においてはTOEIC900点や、TOEFLが600点があれば、英語が高いレベルに達しているとされている。このレベルに達するのは大変な努力が必要なことは重々承知している。しかし、これらの点数(特にTOEFL)はあくまで米国の高等教育を受ける為の目安であり、残念ながら、これらの点数をとってもネーティブとの英語力の差は歴然である。

個人差はあるが、日本で教育を受けた人に比べ、帰国子女はこれらのレベルに早く達しやすい。しかし、それ以上の知識や専門性は、本を読んだり、勉強をして向上するしかない。また、母国語が深い思考を行うレベルに達していないと、次の段階で苦労することになり、母国語の教育は極めて大切である。 

親に出来ることは、与えられた環境にて、子供にベストな機会を与えてあげることであろうか。そして、子供の努力に対して常に注目し、愛情を注ぐことが最も大切であると思う。

子供は親の英語の発音がおかしいことを小さい頃から認識しているし、語彙もネーティブと比べて少ないことも、言い回しも豊富ではないことにも気がついている。それでも、英語を使って働いてる親の姿を見て、自らの将来の為に役立ててもらえればと思っている。帰国子女は日本の宝である。親のレベルを遥かに超えて、世界に大きく羽ばたいて欲しい。

2013年11月2日土曜日

ベルベル人による戦いとは

ベルベル人という言葉を初めて聞いたのは高校生の時であろうか。イベリア半島においては、1492年のグラナダ陥落に至るまで、イスラム教徒による支配が何世紀にも及んだが、その征服した主な民族がベルベル人だと教わった記憶がある。

当時、『漫画で覚える世界史』と呼ばれる本(漫画)があり、ベルベル人がイベリア半島に攻め入っているシーンを覚えている。記憶に間違えなければ、そのベルベル人は褐色であり、サブサハラのアフリカ人の特徴をもって描かれていた。その認識が誤りであることを知ったのは、25年以上も経った最近の事である。一般化することは難しいがベルベル人はコーカソイド系であり、サブサハラのアフリカ人とはその特徴が大きく異なる。

一体ベルベル人とはどのような民族なのか。その歴史は古く、かつては紀元前から北アフリカに存在していた。現在、ベルベル人はモロッコからエジプト、そして、マリやニジェールに分布しており、今日に至るまでその文化や言葉を継承している。今日、北アフリカにおいては、2500万から3500万人がその言語を話すといわれており、民族的にはそれよりもはるかに多い人口が存在するようだ。

しかし、その歴史は必ずしも日に当たるものばかりではなかったようだ。ベルベル人は歴史的にローマ帝国、ヴァンダル王国、東ローマ帝国、アラブ、フランス等の為政者によって征服され、7世紀以降は、イスラム教化が進み、その間、地域によっては他民族との混血が進んだ。11世紀以降には主権を取り戻した時期もあったが、時には為政者により傭兵として利用され、そしてその文化や言語は社会の周辺に位置づけられていった。

一方で、その文化や言語を再認識する動きが進んでいる。アルジェリアにおいては2002年4月より、モロッコにおいては2011年7月より、ベルベル語(Amazigh語)が公用語として認められている。しかし、先週のJeune Afriqueの記事によると、モロッコにおいては、15%の生徒しかベルベル語の教育を享受できないという現状であるという。更に、子供の出生時にベルベル人の固有の名前が役所で認められず、親が裁判を起こす例も見られるようである。

そのアイデンティティーを追い求める運動は南部でも行われているという。アルジェリアの南部の国境付近やマリ、ニジェールにおいて、ベルベル人は、各国においてその地位を確立されていない。MNLA(アザワド解放民族運動)に代表されるように、ベルベル人(トゥアレグ族)が武器を手にして戦っているのは、自らの地位の確立と平和の獲得が目的であるという。各国の歴史や背景が違うため、形態こそ異なるものの、ベルベル人の戦いは続いている。

私の友人にはベルベル系のアルジェリア人と、ベルベル系とアラブ系のハーフのモロッコ人がいる。その二人、特にアルジェリア人の友人はベルベル人であることに強い誇りを感じているようだ。そのアルジェリア人はベルベル語が母国語であり、アラビア語は小学校から覚えたという。二人曰く、ベルベル人とアラビア人は文化も人種的にも全く異なり、アルジェリアとモロッコにおいては、アラブ系とベルベル系を見分けることも可能であるという。民族の融合が進んだ日本では考えられないが、縄文系と弥生系を見分けることができるような感覚なのであろうか。

現在、北アフリカにおいては、2011年のアラブの春以降、政治的混乱に伴う不安定な状況が続いている。有史以前から生き抜いてきたベルベル人は、これらの混乱も超えて、自らのアイデンティティー求めながら生きていくのであろうか。

【参考資料】
http://www.jeuneafrique.com/Articles/Dossier/JA2753p024.xml0/niger-mali-islam-maghrebafrique-du-nord-l-internationale-berbere.html
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Movement_for_the_Liberation_of_Azawad
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E4%BA%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_medieval_Tunisia

2013年10月26日土曜日

パブロ・ピカソ(アフリカと日本との関係)

先週末のパリ滞在中に『ピカソ美術館』に訪問したが閉館していた。現在、改装中であり、来年の夏頃に再開するという。楽しみにしていたピカソの絵を見ることができず残念であった。

パブロ・ピカソ(1881~1973)は誰もが知るスペインの画家であるが、パリで人生の大部分を過ごし、そしてパリで人生を終えた芸術家である。ピカソ美術館は、ピカソの遺族が相続税として物納した作品が多く、その収蔵数は約5000点にも上る。作品は、青の時代、ばら色の時代、キュビスム、新古典主義、シュルレアリスムと年代順に展示されており、ピカソの画風の変化をたどることができる。

私は芸術センスのかけらも持ち合わせておらず、自らが真面目に描いた絵がピカソに似ているといわれることが理由ではないが、10代の頃、バルセロナにあるゲルニカを見て感動したこともあり、ピカソに興味を持った。その数年後に今回入館できなかったピカソ美術館にも訪問したが、その際には、ピカソが若い頃に描いた写実的な絵画を見て、その誠実な絵のスタイルに驚いたことを覚えている。美術館では、ピカソの絵画が時代と共にデフォルメしていき、最終的に独自のスタイルに辿り着く経緯が大変興味深かった。

かつて、ピカソ美術館に訪問する前は、ピカソは狂人であるが故に、そのような独自の世界を描くのであろうと思っていたが、美術館に訪問した際にはその考えを改めた。ピカソの絵画とは、様々な文化を取り入れて、徐々に本来の写実的な絵から変貌していったという印象をもった。ピカソは天才ではあるが、持って生まれた狂人ではなさそうである。

アヴィニョンの娘たち
Les Demoiselles d'Avignon
(1907)
その影響された文化とは紛れもなくアフリカ文化であり、そして日本文化である。ピカソ美術館に訪問した際は、20年以上も前のことなので、ほとんどの絵の内容は忘れたが、ピカソの絵の何枚かは明らかに日本の浮世絵の影響があると思ったことをはっきりと覚えている。

今回、その変貌していくピカソの一連の絵をもう一度この眼で見て、海外の文化からどのような影響を受けたか観察したいと思っていたが、その希望が叶わなかった。

従い、その若かりし時の好奇心を呼び起こす為にも、その疑問点についてインターネットで調べて見た。前回、ピカソ美術館に訪問した頃はインターネットはなかったが、現在、美術館に行かなくてもかなりの情報を入手できる。時代が大きく変わったことを認識した。

調べたところ、やはり、ピカソは1906年から1909年の間はアフリカ芸術に強い影響を受けていたようだ。当時のフランスは、アフリカの植民地政策の影響もあり、多くのアフリカの美術がフランスに運ばれたという。ピカソの絵である『Les Demoiselles d'Avignon』の右端の二人の絵はアフリカの影響を受けたと言われている。

一方で、ピカソが日本の絵画から受けた影響について、喧々諤々議論がされているようである。一説によると、フランスで活躍したアメリカ人女流文学者ガートルード・スタインが日本の絵をピカソに見せた際には、『日本の絵は好きではないね。』と語ったようだ。しかし、ファイナンシャルタイムズの記事で指摘しているように、ピカソの絵は本人の虚勢とは裏腹に、日本の絵画から大きく影響を受けているようだ。それはピカソの当初の作品に少し見られ、最後の10年間の官能的な絵に大きく影響していたようである。ピカソの『Raphael and La Fornarina』礒田湖龍斎の春画が影響したと言われている。

ピカソが海外の手法を取り入れて、西洋絵画の伝統を打ち破ったのは間違いない。アフリカと日本の芸術がそれに貢献していた意義は大きいのではなかろうか。

【参考資料】
http://www.musee-picasso.fr/homes/home_id23982_u1l2.htm
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/3e6adb38-f4cd-11de-9cba-00144feab49a.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD
http://news.mynavi.jp/news/2013/02/04/166/
http://www.musee-picasso.fr/homes/home_id23982_u1l2.htm

2013年10月21日月曜日

パリの思い出(日航と弁慶)

セーヌ川の夜景が一望できるレストラン『弁慶』。ここの鉄板焼きは格別である。料理、サービス共全ての面で細かい配慮が行き届いている。シェフは全て日本人であり、ウェイトレスやウェイターも多くの日本人が従事している。週末ということもあり、リラックスしたフランス人の多くの家族やカップルが集まっていた。

鉄板焼きはブランデーを使って、炎を高く上げたりはするものの、アメリカのBenihanaのような、包丁で鉄板を奏でるようなエンターテイメントの要素は少ない。落ち着いている雰囲気であり、正真正銘の日本の空間がそこにある。

チュニジアから来たお上りさんの私にとってセーヌ川の夜景は眩しい。しかし、年老いた両親と共に海外でこのように食事をする機会は貴重である。1週間ほど、チュニジアに滞在した両親と、日本のビールと鉄板焼きを堪能しながら、次の日の別れを惜しんだ。

実は、この弁慶には10年以上も前に妻と幼少の娘と訪問したことがある。パリ旅行滞在中のせめて一回は高級なレストランに行こうと決めており、フランス料理でなく弁慶を選んだ。和食がないと生きていけない私の我がままを聞いてもらったことになる。パリに出張していた義理の姉も参加した賑やかな思い出である。

現在、この弁慶はノボテルホテル内にあるが、かつては日航ホテルにあった。料理人によると、2002年に日航がノボテルにこのホテルを売却したという。この頃は日航の経営が傾き、ホテル等のノンコアビジネスの資産を売却していた。パリの日航ホテルは日航のスチュワーデスの常宿となっていた華やかな場所でもあった。

このような思いでもあり、私にとっては弁慶とかつての日航が重なって見える。おもてなしのサービスをするという共通の場所でもある。

振り返れば、かつての日航のサービスは他社と比較しても格別であった。海外出張後にJAL便に乗ったときのほっとした気持ちが今でも忘れられない。JALのグローバル会員になるために必死でマイレージを集めていたのが懐かしい。

現在、日本航空は再上場し、再び成長するべく目論んでいるようである。しかし、LCC等との競争もあり、益々のコストの削減が必須となるだろう。人件費のみならず、エアバスに調達先を分散化したのもその一環と思われる。

パリ、弁慶、そして日本航空と懐かしい思い出である。本日は、両親と共に再び、思い出の場所に来れたことに感謝している。

2013年10月20日日曜日

フランスとチュニジアにおけるシナゴーグについて

花の都、パリ。そこはかつてのヨーロッパ人よる都市から変貌し、様々な人種が集まる坩堝となっている。この兆候は過去20年間、パリに来る度に加速しているような印象を受ける。現在、街のあらゆる所でアラブ人、アフリカ人、そしてアジア人が働いている姿が見られる。

フランスの人口は約6500万人であるが、アラブ系の人口は600万人から700万人といわれている。これらのアラブ系住民の大半は、かつての植民地や保護地であったマグレブ諸国(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)より、1970年以降に急増した移民や移民の子孫である。そのほとんどがイスラム教徒ということを鑑みれば、フランス人の10%以上がムスリムということになる。移民又は移民を親に持つ人口は全体の20%にも昇るという。

そしてフランスはユダヤ人との歴史も深い。1787年に起こったフランス革命を機にユダヤ人は市民権を得て、他国からユダヤ人の移民も増えたという。現在、60万人のユダヤ人がフランスに住んでいるといわれ、フランスはアメリカ、イスラエルに続いて3番目にユダヤ人が多い国となっている。

そのパリであるが、オペラ座の近くに『シナゴーグ‐ドウラ‐ビクトワール』というヨーロッパ最大のシナゴーグがある。外見は近辺の石造りの建物と何ら変わらず、一見シナゴーグであることが判りにくい。しかし、よく観察すると正面玄関の上部にヘブライ語の記述がある。本日は土曜日にてシナゴーグが閉鎖されていたが、警備員によるとその中には大きな礼拝堂があり、金曜日の礼拝には多くのユダヤ人や集まるという。

一方で、私が住んでいるチュニジアのラファイエット地区というところにもシナゴーグがある。この建物は入り口付近が有刺鉄線で囲まれており、大勢の警備員に取り囲まれている。正直、重々しい雰囲気を醸し出していることは否めない。歴史的にはチュニジアにおいては、ユダヤ教徒とイスラム教徒が協力して暮らしていたが、1956年のフランスからの独立により、チュニジアはアラブ諸国の一員として正式にムスリム国家となった。これによりユダヤ人はチュニジアにおいて事実上の部外者となったという。

友人に聞いた話であるが、独立後、ダウンタウンのにあるユダヤ人墓地(私有地)は公共の施設となり、襲撃を受けたこともあったようで、現在は荒れ果てているという。確かに、Kheireddine Pacha通りから墓地を見たが、まったく手入れがされていないという印象を受けた。ユダヤ人は1956年以前には11万人いたが、現在は2千人未満となっており、その多くがイスラエル又はフランスに移民していった。

先週末にチュニジアより南西100KMに位置するテストゥールに訪問した。この街は17世紀においてスペインのアンダルシアから移り住んだ人々が築いた街で有名である。移民した人々は1492年のグラナダ陥落後のキリスト国家になったスペインにおいて、キリスト教に改宗することを拒否したイスラム教徒とユダヤ教徒達である。

テストゥールのモスクを見た際には、ダビデの星のサインが飾られているのには驚いた。これはイスラムとユダヤ教徒の融合の印であるという。かつてチュニジアはイスラム教徒とユダヤ教徒がお互い協調して住んでいたことを表す一例である。テストゥールはコルドバのユダヤ人街に似ているこじんまりした好印象の街であった。

フランスにおいて、ユダヤ教徒とキリスト教徒において問題がないわけではない。しかし、近年のフランスとチュニジアにおいて、ユダヤ人への対応とその歴史は大きく異なるようである。本日はパリにおいて、“美と洗練を誇るパリ”のみではなく、移民、そしてユダヤとムスリムについて考えさせられた日であった。

2013年10月18日金曜日

ベルベル人とフェニキア人の融合(ポエニとは)


日本ではポエニ(英:Punic)とはフェニキア人のことを指すと言われているが、チュニジア人に言わせるとその意味合いは多少異なるようである。ポエニとは、紀元前8世紀前から北アフリカに住んでいたベルベル人と、テユロス(レバノンのスール)から来たフェニキア人の融合した民族、又はその融合した文化を指すようである。

その二つの文化であるが、ギリシャに敗北したヒメラ戦争(紀元前480年)後にその融合が急速に進んだようだ。フェニキア人の神であるバールはベルベル人の神であるアモンと融合し、バールハモン(Baal-Hammon)となり、フェニキア人の女神のアスタルトはベルベルの女神であるタニト(Tanit)と統一していったという。第一次ポエニ戦争が始まる紀元前3世紀頃にはこの二つの民族は完全に一体化していったようだ。

さて、このベルベル人と、フェニキア人の二つの民族の遭遇はどのように起こったのであろうか。昨日、カルタゴにあるローマ住居に訪問した際に年配のガイドより興味深い話を聞いた。

そのローマ住居はカルタゴの大統領官邸と隣接しており、地中海が一望できるロケーションである。そのガイドが、濃い青色に染められた地中海を指さしながら言った。『中東からディドーが大きな船と共に大勢の家来を率いて、両手を広げながら陸に近づいてきた。』これを見たベルベル人は驚愕の眼差しでその船に見入ったという。紀元前814年頃の話である。日本人が、ペリー来航した時の『蒸気船たった四杯で夜も眠れず。』という心境と同じであろうか。または、マヤ人がスペインから来たコルテスを見たときの驚きに似ているのであろうか。

さて、そのガイドによると、フェニキア人とは、旧約聖書に記載されているノアの孫であるカノン(ハモンの息子)であり、ユダヤ人の末裔であるという。そのフェニキアの都市国家テュロス(レバノン)の国王の娘のディドー(幼名エリッサ)は、叔父のシュカイオスと結婚をしていた。しかし、父の死去の際に、兄のピュグマリオーンと彼女が共同で国を治める旨、遺言されたが、兄が王位の独占と叔父の財産を目当てにディドーの夫である叔父シュカイオスを暗殺し、ディドーも暗殺しようとしたという。そのような経緯から、傷心のディドーは全てを投げ捨てて家臣たちと共に航海で出たという。

そして、ディドーがカルタゴに着いた際に、ベルベル人の王様であるイアルバースに土地の分与を申し入れ、イアルバースには牛の皮(ビルサ)1枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言われたが、その皮を細かく引き裂いて土地を取り囲み、砦を築くだけの土地を得たという。この土地が現在の『ビルサの丘』である。カルタゴとは『カルト・ハダシュト』のローマ読みであり、フェニキア語で新しい町を意味する。

そのディドーの才能を見たイアルバースは彼女に惚れて求婚した。しかし、亡き夫の死の際に決して再婚しないと誓っていた彼女は申し入れを受け入れられなかった。最終的には、イアルバースとの結婚の準備をするという名目で火葬を準備し、『夫の元に戻る』という言葉を残して、剣で自害し、炎に飛び込んだという。悲しい結末である。

その後、ディドーは神格化され、月の神、又、ある時はアスタルト(女神)として崇められた。フェニキア人にもべルベル人にも愛された存在であったのであろう。その後、ディドーはーベルベル人の神であるタニトに融合され、チュニジアの文化に深く刻まれているようである。

昨日は犠牲祭(イード)の為、休日であったが、日本から両親が来て、妻、娘も含めて3世代によるチュニジア見物となった。フランス語と英語が混じったガイドの1時間以上にも及ぶ演説は聞きごたえがあった。日本への土産話に相応しいメロドラマティックなストーリーであり、年老いた両親が大喜びをして聞いていたのが嬉しかった。

【参考資料】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88
http://www.thaliatook.com/OGOD/tanit.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Berber_mythology
http://en.wikipedia.org/wiki/Canaan_(son_of_Ham)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dido_(Queen_of_Carthage)

2013年7月14日日曜日

『ラマダーン』と『家族の絆』

ラマダーン4日目の本日。日照時間が長く、19時を過ぎても『日の入り』にならない。街の様子も独特の雰囲気を醸し出している。恐ろしいほどの静寂が漂い、イスラム教徒が耐えている雰囲気がひしひしと伝わる。

今年もラマダーンが始まった。7月10日から、チュニジアは別世界の様相に包まれている。1か月間、イスラム教徒は『日の出』から『日の入り』まで断食を行う。ほとんどの商業活動は午前中で終了し、レストランやバーは外国人用のホテル等を除き、一切閉店している。スーパー等におけるアルコールの販売も禁止である。

昨年もそうであったが、ラマダーン中には孤独感が拭えきれない。ラマダーンはあくまでイスラム教徒にとって神聖な儀式であり、非イスラム教徒にとっては門戸外である。この雰囲気に逆行するように、昨日の金曜日にはチュニスで数少なく開店している外国人用のバーで一人寂しくビールを飲んでみたりしたが、何故か虚しい。店も街の雰囲気に同調するように閑散としている。出稼ぎ外国人の私にとって日本の家族が恋しく感じる。

ラマダーンとは、イスラム暦の第9月の事を指すという。この断食の習慣は、624年、モハメッドが300人ほどの信者全員と共に、メッカの部隊を破ったことを神の恩寵と捉え、記念したことに始まったようだ。イスラム教には、5の柱と呼ばれる信仰告白(シャハーダ) 、礼拝(サラート)、喜捨(ザカート) 、断食(サウム) 、そしてメッカへの巡礼(ハッジ)があり、4つ目の柱『サウム』を1ヶ月間集中的に行う月が『ラマダーン』であるという。

ちなみに、イスラム教徒にとってはラマダーンは苦行であるが、辛いことばかりでもなさそうである。病人や赤ん坊を除いて、老若男女の全てが日照時間中は断食を行うが、日の入り後は家族全員で食事を共にする。イスラム教徒とって、ラマダーンとはアラーに対して信仰を捧げると共に、家族の絆を深める儀式でもあるようだ。その後は買い物などに街中に繰り出し、その賑わいは夜更けまで続く。私のチュニジア人の友人もラマダーンに対して否定的なコメントをするものはいない。子供の頃から家族や親せきに囲まれて楽しい思い出ばかりであるという。

私は高層のアパートに住んでいるが、窓から、様々な家庭が全員で夕食を準備しているのが見える。ベランダで食事をするものを入れば、屋内で食事をするものもいる。テーブルの上には食事と飲み物が並んでいる。彼らは日の入り後に、一斉に食事を開始する。

今宵は家族でどのような話題をするであろうか。親は子供たちに『今日も大変だったけど頑張ったね』と褒めるのであろう。まるで、家族同志で『サハ』、『サハ』(『いいね』、『いいね』)と笑いあっている声が聞こえるようである。断食の後の食事の味はさぞかし格別であろう。家族団欒の夕食に『Buena Appetite!!』(良いお食事を!)である。

2013年7月4日木曜日

プロジェクト・ファイナンスとは

先週一週間、プロジェクト・ファイナンスの研修に参加してきた。チュニジアの太陽が燦々と輝く、青い空のリゾート地にて、缶詰状態での研修である。

研修の講師は年配のイギリス人であった。既に70歳近くになっていると思われるが、プロジェクト・ファイナンスには30年間以上関与してきたという。その経歴を聞くところ、若い頃はイギリスでMBAを取得し、投資銀行や商業銀行に勤めたようだ。その後、欧州の某開発銀行の局長まで上り詰め、世界中のエネルギー、電力やインフラのプロジェクトに関与してきたという。謙虚な方であるが、明らかに只者ではない雰囲気が漂っていた。

ご参考までにプロジェクト・ファイナンスとは融資の一形態である。企業の信用力とは別に、プロジェクト自体から生じるキャッシュフローをもとに融資を行う手法である。その分野は資源、非鉄、インフラ等多岐にわたって活用されている。プロジェクト・ファイナンスは10年を超えるような長期の案件が多く、スポンサー(株主)、レンダー、EPCコントラクター、オフテーカー、アドバイザー(リーガル、テクニカル)等、国境を越えて様々な関係者が集まり、プロジェクトを構築していく。

研修はプロジェクトのリスク、キャシュフロー分析、ストラクチャー構築、PPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)等に関するものであったが、その研修内容そのものよりも、講師が話す過去の歴史やプロジェクトの事例が興味深かった。その例は80年代のサッチャー時代の『ユーロトンネル』に始まり、ソ連崩壊から10年経って実現した『バクー・トビリシ・ジェイハン(BTC)パイプライン』 、カタールの『ラスラファンLNG』、チリの『エスペランサ鉱山』等々であった。

これらの案件は日本の企業も参加しており、かつて勤めていた商社の隣の本部にて事業投資していた事を思い出した。その頃は各商社が大々的にリストラを行った90年代後半の少し前の話である。商社マンにとっては夢のある時代であった。

研修は、その他、アフリカのIPP(独立系発電事業者)の歴史や、2000年前半に米国のIPP事業者が世界中で活躍していた話題等で満載であった。AESやSithe等の懐かしいIPP事業者の案件も紹介されていた。ちなみに、2000年前半は米国エネルギー会社が軒並み倒産する時期であり、アフリカの電力事業の主役も米国勢から欧州勢に移行している。

研修は1週間の缶詰状態なので、参加者と昼飯も晩飯も一緒である。当然、講師とも話をすることになる。そのイギリス人の講師によると、多くの日本企業とも働いたことがあり、私のかつて勤めていた商社とも取引を行っていたという。また、私が一時期所属した米エネルギー会社とも商談をおこなったという。その講師の懐かしそうに話をしていた顔が印象的であった。

その米エネルギー会社にはレベッカ・マークという女性の副社長がいたが、その講師はレベッカと会ったことがあるという。レベッカは世界中の電力事業を立ち上げ、資産を買い上げた豪腕で知られた女性である。レベッカは私にとって突き詰めると上司にあたった人であるが、当時は雲の上の存在であった。

その講師によると、かつてサウジアラビアのIPP案件があったが、スポンサー(株主)がつかず、その案件は暗礁に乗り上げていたという。しかし、サウジ政府も含めて関係者が会議を実施している際、レベッカがアメリカから駆け付け、即プロジェクトの関与を約束したという。本来であれば、サウジの関係者は救世主に対して感謝をするべきであるが、レベッカの提案は拒否されたという。理由は何故か。レベッカは女性であり、しかも、その高圧な態度と、その服装がイスラム教徒であるサウジ関係者の反感を買ったそうだ。その講師はその会議の一部始終を見ていたという。

プロジェクト・ファイナンスとは融資の一形態であるが、その手法を通して、様々な関係者が国境を越えて出会う。それぞれの立場は違うが目的はプロジェクトが完成し、無事に運用が行われ、資金を回収することである。そこには、長年かけてプロジェクトを構築した先人たちの努力とドラマがある。先週はプロジェクト・ファイナンスの歴史を垣間見た一週間であった。

2013年7月2日火曜日

米国の裏の姿とは

昨日、BBC(英国放送)を見ていたところ、米NSA(国家安全保障局)がEU連合の施設で盗聴や電子メールの傍受を行っていることをドイツの週刊誌が暴露したことを知った。これに対してEUは米国に対して激怒しており、即座の説明を求めているようである。

このニュースにを見て、1995年、日本が米国のカンター通商代表と行った日米貿易交渉の際に、当時の橋本通産相の電話がCIAに盗聴されていたことを思い出した。当時、若かりし時の私は、そのアメリカのアンフェアーな手法に憤慨した記憶がある。しかし、今回のニュースを聞いても特に驚かなかった。残念であるが国際政治の世界とは汚くそして残酷なものなのであろう。恐らくこれらの盗聴による情報収集はアメリカの常套手段であると思われる。

少し話はそれるが、年末に一時帰国した際に日本から持ってきた本がある。元外務省国際局長の孫崎享が著した『戦後史の正体』である。この本によると、戦後、対米追随を行わない『自主派』の首相は短期政権に終わっているという。そこには米国による圧力や裏工作が存在していたようだ。検察特捜部と報道が巧みに利用され、『自主派』の首相が引きずり降ろされている。

その本によると、田中角栄が失脚した理由は日中関係にあったようだ。米国と中国の間で、国交正常化が進まない中で、角栄は1972年9月に『日中国交正常化』を成立させた。その前月にキッシンジャーと角栄はハワイで会談を行い、キッシンジャーは角栄に『日中正常化を延期してほしい』と依頼したらしいが、角栄はその依頼を一蹴した為、米国の恨みをかったという。ロッキード事件で田中角栄が失脚したのは皆が知るところである。

日本人の多くの国民は戦後より、米国を同盟国であると思って疑わないことが多い。ある意味では事実であるが、しかし、冷戦が終焉した1992年頃にはCIAは日本の経済力を“米国の敵”とみなし、対日工作を大々的に行っている。1995年、当時の橋本通産相の電話がCIAに盗聴されていたのはその延長線にある出来事であろう。現在でも、アメリカはあらゆる情報網とリソースを利用して、自国が有利になるべく、日本に圧力や裏工作を続けているようである。

また、日本の経済がここまで低迷した理由は、複合的な要素によるものの、米国の戦略が大きく影響したことも否めないだろう。85年のプラザ合意しかり、91年のBIS規制しかりである。これにより、日本の製造業と、銀行は大打撃を受けた。これらの戦略により、長年に渡り、日本の経済が停滞し、日本を敵対視する意味合いが薄れた。更に中国という新たなライバルが出現したおかげで、日米間での対立が緩和し、米国と日本の軍事同盟関係は維持されているのだから皮肉なものである。

アメリカとは歴史的に敵と味方を入れ替えている国である。イラクのサダム・フセイン、リビアのカダフィー、オサマ・ビン・ラディン然りである。彼らは米国との蜜月時代を築いていた時期もあったが、米国の意向に背くと敵対関係に変化していった。一方で、嘗て戦争を交えたベトナムとは現在、良好な関係を構築している。冷戦が終焉した後、中国の台頭が無ければ、日米関係は大きく変化していたかもしれない。

それでは米国との関係は如何にするべきであろうか。現在、米国の経済はかつての勢いを見せないが、私は米国は必ず復活すると見ている。世界中の知が集まり、人口が増え続ける国である。アメリカを過小評価するのは危険である。従い、私はアメリカとの関係を、より強固にすべきであると思うが、一方で日本は国益に対してはもっと敏感になり、それを強固に守るべき姿勢を貫くべきであろう。『対米追随主義』でもあり『自主派』でもある。

その為には日本人はもっと国際的にならなければいけないし、もっと“したたか”になるべきではなかろうか。国際社会において、なかなか“したたか”になりきれない自らの反省も含めて、日本人に問いたい。

2013年6月10日月曜日

サッカー日本代表の進化と国際化

6月4日、日本代表はブラジル・ワールドカップ出場権をかけたアジア最終予選で、オーストラリア代表と1-1で引き分け、本大会出場を決めた。5大会連続出場であるという。

現在、アフリカに在住している為、その試合を見れなかったのが残念であるが、大変喜ばしいニュースである。幼いころから、釜本邦茂や、木村和司が率いる日本代表がW杯に出場できない状況を目のあたりにしていたので、最近の代表は本当に頼もしい。

私は小学生の頃、世田谷区にあるYMCAのサッカークラブに所属していたが、当時、近所の明治大学のグランドの寮にいた木村和司氏からサッカーを教えてもらったことがある。ミニゲームを一緒に行ったりしたが、そのボールテクニックには驚いたものだ。また、兄とともに、木村氏を訪ねて、その寮に行き、同氏からコカコーラをご馳走になったこともある。その学生寮は古びた木造の建物であったが、壁のあらゆるところには女性の水着姿の写真が貼りつけてあった。その頃は木村氏が日本代表になる少し前であったと記憶している。

その木村氏が1985年のメキシコ大会最終予選の韓国戦で見せた『40メートルのフリーキック』は日本サッカー史に伝説に残るシーンである。しかし、その代表チームでさえも一歩のところでW杯には行けなかった。

その後、1993年のアメリカ大会の最終予選にて、ラモスやカズが活躍した代表チームはイラクチームに土壇場で引き分けに持ち込まれ、またもやW杯行きは夢となって消えた。『ドーハの悲劇』である。当時は湾岸戦争の余韻がまだ残っており、イラクチームはサダム・フセインから相当なプッレシャーを受けていたのであろう。ロスタイムになっても取りつかれたようなイラクチームの怒涛の攻撃を今でも覚えている。一方で日本の代表選手は連日の試合の疲労から足が止まっていた。

その頃の代表とは打って変り、現在のチームは『W杯で優勝を目指す』と宣言している選手もいるというのだから、日本のサッカーの飛躍が窺える。実際に世界のトップとの差はわずかまでと迫っているような気がする。是非、ブラジルでは大暴れをしてもらいたい。

日本の代表は頼もしいチームになったが、それでは、何故、ここまで進化したのであろうか。

当然ながら、20年前のJリーグ発足が日本のサッカーのレベルを底上げしたのは疑いもない事実であろう。Jリーグは世界の檜舞台で活躍した一流の外国人選手が来日することのよって選手に多大な影響を与えた。ジーコ、リトバルスキー、リネカー、ストイコビッチ、レオナルド、パクチソン達である。それらの選手は枚挙にいとまがない。

現在の選手は外国の一流のチームに対しても、当たり負けもしないし、ボールを簡単に取られなくなった。これはJリーグで揉まれてきたと共に、多くの日本の選手が海外に行き、トップクラスのチームで日々戦い自信をつけていったのが最大な理由であると思っている。

まず、その海外行きの先駆者はカズであろう。1992年の春にブラジルに訪問した際に親戚の日系人の叔父から、カズの話を聞いたことがある。『Santos FCに所属していた日本人で生きのいい選手がいた』という。15歳から単身で日本を離れブラジルに武者修行に行ったカズは人知れず苦労をしたと思う。しかし、彼は様々な障害を克服して、日系人の誇りとなっていた。その頃、カズは既にブラジルを去り日本に凱旋帰国をしていた。翌年のJリーグの開幕から同選手が大活躍したのは皆が知るところである。

当時、大学生の私はメキシコに留学をしていたが、同じ時期に、日本人の中学生の二人が、メキシコのグアダラハラのユースチームにサッカー留学に来ていた。私は日本から彼らを訪れていた親に依頼されて、チームとの通訳を数回行ったことがある。その中学生達はアルゼンチン人のコーチの家で宿泊をし、現地の学校に通っていた。サッカーの大変さよりも、言葉が判らない中で、学校や生活に慣れるのに苦労している印象であった。当時、随分、大胆な留学であると思ったが、その親によると、カズの影響があったようだ。まさに、サッカーの海外留学の草分け的な存在である。

あれから20年以上の年月が経った。数々の日本人選手が海外で挑戦したが、現在の日本代表には海外のビックチームで活躍する選手が多くなった。マンチェスターユナイテッドの香川や、インテルの長友、CSKAモスクワの本田等である。

以前、本田のインタビューを聞いたことがあるが、オランダのVVVフェンロー からCSKAモスクワに移籍する際に『リスクではなくチャンスだと捉えている』と語っていたのが印象的であった。また彼の英語で堂々と自分の意見を述べていた姿に新たな日本人の選手像を見た気がした。海外において自分の人生を切り開いていく姿に共感を覚えた。また長友のような日本人の勤勉さを武器にしてチームに貢献している選手もいる。日本人の特性が世界の一流チームで発揮できている証であろう。日本人として誇りに思う。

以前は日本人にはサッカーは向いていないのではと思っていたが、今はそうではない。サーカーはチームワークと勤勉さが求められるし、香川のようなしなやかなボールコントロールが出来る選手も増えている。昨年のロンドンオリンピックにて日本・モロッコ戦を観戦したが、日本チームのプレスの仕方や攻守の切り替え等の組織プレーはモロッコを圧倒していた。これらの組織力に加えて、リスクを厭わない本田のような『個』の力が増えていけば、日本のサッカーは益々強くなるであろう。

実は国際社会においてはサッカーの強い国が一目置かれる。特に男の世界においてはその傾向が強い。サッカーはパーティーや飲み会等のあらゆる場面で話題になる。ちなみに、マンチェスターユナイテッドの香川はドイツ人にとっては完全に認められた存在である。ボルシア・ドルトムントにおける香川の活躍はドイツ人を驚愕させたようだ。

ワールドカップの決勝舞台で日本代表が大活躍する。そんな姿がブラジル大会で見たいものである。日本人としてこれほど愛国心を感じるひと時はないのではないか。できれば決勝は日本とアフリカのチームで戦ってほしい。1年後の本大会が早くも楽しみである。

2013年6月5日水曜日

チュニジアにおけるギリシャ美術品


『征服されたギリシア人が、猛きローマを征服した』ということわざがある。これはローマが軍事的、政治的にギリシャを征服したが、哲学、文学、芸術等の文明については、ローマは洗練されたヘレニズムに及ばなかったということらしい。

紀元前146年にギリシャはローマ帝国の支配下に入る。ローマ帝国支配下においてもその文明は繁栄し、その影響力の大きさから、ギリシャは『ヨーロッパ文化のゆりかご』と称されることもあるという。その後、紀元前88年にアテネや他の都市がローマ帝国に反乱を試みる第一次ミトリダデス戦争が起こるが、ローマの将軍のスッラに制圧されている。 

このような洗練されたギリシャの哲学、文学、芸術にローマ人は傾倒していたという。特にローマの上流階級にとってはギリシャから美術品に囲まれて生活する事が最高のステータスであったようだ。多くの美術品が売買されたのみならず、略奪も横行したようだ。

チュニジアのバルドー博物館の中に一際目立つ、数々の青銅の像や、大理石彫刻、壷、宝石等の美術品がある。その美術品は紀元前の4世紀から紀元前1世紀のギリシャのコレクションであるようだ。これは、紀元前の1世紀頃にアテネ近郊ピラウス港からローマに向かう船がチュニジアのマハディア沖で難破し、後にその沈没した船から回収した美術品であるという。

その美術品を運ぶ輸送船は、アテネからローマに向かうところで暴風雨等による何らかな天候上の理由でチュニジアに漂流したようだ。チュニジアはギリシャを征服したことがないことから、これらの大量の美術品はローマの上流階級に対して輸送する為であることが推測されている。この美術品の超一流の質と、年代を超えたコレクションから、ローマ帝国の将軍スッラが輸送を命じたのではという説もある。第一次ミトリダデス戦争後の出来事である。

実際にバルドー博物館においてこららの美術品をしばらく眺めたが、その繊細で表情豊かな彫刻のレベルは、その後のローマ帝国の美術品を圧倒していた。まるで『ギリシャ神』が生きたまま青銅に化身しているような錯覚に陥ったほどである。とても紀元前の美術品とは思えなかった。

これらの美術品は、1900年頃にマハディアにおいて、海綿動物を採取するダイバー達によってその沈没した船が発見され、その後、フランスの保護領下にあったチュニジア政府によって回収されたという。ダイバー達が、40m底に沈んでいた船の中からこれらの美術品を発見し、その後、それらを陸まで運んだ時には心が震えたに違いない。

週末にバルドー博物館に訪問したのはローマ時代のモザイク画を見学する為であった。しかし、その一際目立つギリシャの美術品の美しさに見入ってしまった。まさに『神の国ギリシャ』に脱帽である。

【参考資料】

2013年5月31日金曜日

安倍政権の海外留学支援について

安倍政権は日本から海外に留学する学生向けの奨学金制度を拡充する方針を打ち出したという。その奨学金は秋学生に限定しているとはいえ、希望者全員を支給対象としており、大胆な支援策であるのは間違いない。

昨今、日本の若者が内向きになっていると言われている中で、政府が留学生の後押しをすることは良いことであろう。また、国際基準に合わせるべく、秋入学の導入を加速するということにも賛成である。

GDPの2倍もの国家の債務がある中で、留学制度にまで政府が支援する必要があるかという議論は当然にあるだろう。しかし、今後、日本が海外の市場に重きを置いているのであれば、留学制度を支援することは必要ではなかろうか。意味のない公共事業を行うよりは投資効果は覿面である。

それでは、この海外留学とはどのような形態になるのであろうか。少し考えてみたい。

まず、この奨学金の支援制度はワシントンで下村文部科学大臣が発表したことから、その受入れ先を米国に想定しているようである。この制度は、3月の高校卒業から大学入学9月までの半年間(ギャップターム)にて海外留学を希望する学生を対象としているという。

恐らく、対象の学生達は、まず3月から大学付属の語学学校に通い、6月に入って語学学校を継続するか、又はサマーコースの選択授業を受ける制度ではなかろうか。通常、アメリカの大学は3月頃は学部の受け入れは行わないが、6月からはサマーコースと言われる選択授業のコースを受講する事ができる。高校を卒業していれば、他大学や海外から訪問して6月から9月までの期間に選択授業を受ける事が可能である。

実際に、私もカリフォルニアの大学院の入学前は、同じキャンパスにある大学のサマーコースを受講することが出来た。私は簿記、統計学、英作文の授業を受けたが、他にも語学やリベラルアーツの授業もあり、その選択授業の数は豊富であった。当時、既に30代後半になっていたが、米国の20歳前後の大学生と机を並べて勉強した思い出がある。若作りしていたせいもあってか、誰も私のことをを気に留める学生はいなかった。

上述したように、私はこの政府の方針に基本的には賛成である。しかし、懸念すべきことは、この制度は勉学の意義とは別に、充分な国際交流が可能であろうか。まず期間が半年と短い。恐らく学生は大学のキャンパスの寮に入ることになると思われるが、日本人が大挙して押し寄せたりしたら、アメリカの学生と中々交友することが出来ないだろう。なるべく、日本人が居ないような片田舎に学生を分散するべきであると思う。また、留学先を米国に偏重しているが、途上国が世界の政治・経済において存在力を増している中で、正しい選択肢と言えるのか疑問に感じる。

それでは、仮に私がもし文部科学大臣であれば、留学支援に関して、下記のように提案したいと思う。

まず、留学期間を1年以上とし、高校時代や、大学の2年生や3年生時に、途上国向けの留学支援を行う。英語圏であれば、フィリピン、インド、パキスタン、マレーシア、ケニヤ、タンザニア、ウガンダあたりが対象国になるのではなかろうか。ギャップタームの米国留学の費用が数十万円程度とのことなので、途上国であれば1年間以上の留学支援が可能となる。海外で取得した単位を日本の高校や大学で認める制度も必要であろう。

次に、上述した制度を拡大する為に、現在、日本政府が国費外国人留学生として受け入れているあらゆる派遣国に対して、日本人の学生が無償で学べる交換留学制度を構築する。その派遣先はアジアのみならず、中東、中南米、アフリカを対象とする。英語圏のみならず、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、アラブ語、中国語、韓国語、ベトナム語圏等の受け入れ先を確保する目的である。語学のレベルにより、学部入学が難しければ大学付属の語学学校でもいいし、高校でもかまわない。現在、6000人の外国人学生が日本で学んでいるので、同等数の日本人の学生が途上国に行ければよいと思う。渡航費や生活費は個人負担でもかまわないのではないか。通常、生活費は日本よりもはるかに安いので、日本に住むよりも安上がりである。

これからの時代は異文化の人間とのコミュニケーション能力が極めて大切になる。国際感覚とは、外国人と同じ釜の飯を食べたというような経験をしないかぎりなかなか身につかない。時には屈辱的な思いをすることもあるであろう。若いころにそのような経験をしながら、異なる国の人々と時間を共有することが極めて大切である。これらの経験が大人になって必ず役立つ。

自らの経験でいうと、15歳の時に東京からオーストラリアのビクトリア州の田舎に1年間留学した時は、天地がひっくり返るほどのカルチャーチョックを感じた。ホストファミリーが営む牧場で、学校登校前の早朝に牛乳を採取した経験は忘れられない。現地の高校でも唯一有色人種であった。最初の半年間は、日本人に一人も会わなかったと記憶している。これらの経験が現在の海外生活を支えていると思っている。

今後の日本は先進国のみならず、途上国の人々に対して、物やサービスを提供し、飯を食っていかなければいけない。日本人が現地の会社を経営しなければいけない場面も増えてくるであろう。日本の成長は途上国の人々との付き合いが鍵になる。日本は未だに米国に偏重している傾向があるが、日本の学生があらゆる国に羽ばたいて有意義なネットワークを構築してもらえればと切に願っている。

【参考資料】
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0200Z_S3A500C1CR0000/

2013年5月30日木曜日

フランス人の多様性 

90年代の前半であろうか。かつてクレッソンというフランスの女性首相が、日本人の事を『黄色いアリ』と差別的な発言したことを記憶している。また、かつての上司がフランスに社費留学した時の話を聞いたことがあり、『当時(1970年代後半)のフランス人が日本人に抱くイメージは“猿”と同様だった。』という言葉が強く印象に残っている。当時のフランス人の有色人種に対する偏見は根強いものがあったのだろう。

私はこれらのネガティブのイメージのせいか、今まで積極的にフランスに関わろうとして来なかった。正直、あまり住みたくない国であると思い込んでいたのも事実である。従い、若い頃に旅行や出張を通じて何回かフランスに行ったことがあるが、フランス文化に傾倒したこともなければ、フランスに憧れたこともない。フランス語に本格的に触れたのもチュニジアに来てから初めてであるし、フランス人の友人を持ったのもほぼ初めてに等しい。

先週、同僚のフランス人の友人が結婚し、結婚式とその前夜祭にて、彼の家族や多くの友達と共に祝福をあげた。彼はイベリア半島出身の親を持つフランス人であり、新婦はチュニジア人であるが、フランス生活が長かった為、二人の学生時代やかつての同僚達がフランスから50人程駆けつけ、賑やかな集まりとなった。

その集まりにおいて、多くのフランス人と話をする機会があったが、正直、私のフランス人に対するかつてのイメージは一掃された。上述した通り、私のフランス人に対するイメージは気位が高く、外国人に閉鎖的であるというものであったが、最近の若い世代(20代や30代)はそうではなさそうである。話しをした殆どのフランス人はフレンドリーで、国際的であり、日本に対して多大な好奇心を持っているという印象を受けた。

そのフランス人達による日本に関する話題も、セーラームーンやドラゴンボールを始めとする漫画や、懐石料理の食文化、北野武の映画や、秋葉原におけるコスプレ並びにメイドカフェ文化と多岐にわたった。日本の金融機関の欧州現法に勤めているものもいた。また、漫画等を通じて、片言の日本語を知っている人が多く、『おたく』という言葉まで知っているフランス人がいたほどである。彼は日本の漫画とゲームが大好きな自称『プチ・おたく』であるという。

どうやら、フランスという国は、この30年程の間に、かつての植民地化による後遺症とグローバリゼーションの流れの中で、その伝統的な価値観が大きく変化していったようである。驚いたのは結婚式に来ていたフランス人の顔ぶれが、フランス人の先祖を持つもののみならず、サブサハラのアフリカ系や、北アフリカ系、東欧系等、様々な顔ぶれであったことである。また、多くのカップルが異なる人種間のカップルが多かったのが印象的であった。白人(コケ―ジョン)とネグロイドのカップルが多かったのには驚いた。

フランス人のエスタブリッシュメントも国際化しているようだ。前サルコジ大統領はハンガリー系の移民の子供であるし、内部大臣のマヌエル・ヴァルスはスペインの出身であり、20歳の時にフランスの国籍を取得したという。フランスのサッカーチームを見ても実に顔ぶれが豊かである。アルジェリア系のジダンや、アフリカ系のアンリ等の例を見ても、如何にフランス人の人種構成が多様化しているかがわかる。

フランスという国はかつての自国に対する圧倒的な誇りを持つ国から、様々な人種が交わり、他国の文化を学ぼうとしている国際的な国に変貌を遂げつつあることがわかった。今後、これらの動きは更に加速するであろう。様々なカップルを拝見して、フランスとアフリカが融合する日もそんなに遠くないと真剣に思ったほどである。

2013年5月19日日曜日

電力自由化の“デジャブ”

本日、久しぶりに日本のニュースをインターネットで見ていたら、電力の完全自由化が行われる見込みであることを知った。その内容によると、政府は5年後から7年後を目途に電力の小売りの完全自由化と発送電の分離を目指すという。

私は一瞬目を疑った。私にとってこの電力自由化の動きは“DejaVu(デジャブ)”である。既に10年以上前のことであるが、当時、『黒船』と呼ばれた米国の某エネルギー会社の日本の現地法人に勤めており、電力事業に参入しようとした経緯があるからである。しかし、自由化が頓挫し、道半ばでその目的を達成できなかったという思いがある。今回の方針は時代が遡ったような内容であるが、果たして政府は本気なのであろうか。ここで少し当時の事を振り返ってみたいと思う。

2000年より、2000kW規模以上の大口需要家に対する小売りが規制緩和され、当時は将来の完全自由化に向けて期待が高まっていた。その米国エネルギー会社は日本の電力市場にて流動性が生まれることを予測しており、既存の大口需要者に対して、年間電力料金の10%分を現金で支払うことを引き換えに、将来において電力を供給する権利を得るという商品を展開していた。少し専門的な用語であるが、デリバティブの『プットオプション』という考え方である。当時、私は同社のトレーデイング部門に所属しており、その商品を販売していた。しかし、その商品のコンセプトがあまりにも斬新すぎて需要家からなかなか理解が得られなかった記憶がある。最終的には、その商品のメリットを理解し、購入してくれた顧客も数社ほど存在した。

一方で、同社の発電部門においては、将来の電力の流動性を高める為に、青森や四国に大型の発電所も建設するべく計画が行われていた。当時、これらの動向は画期的であり、連日、日経新聞の一面を賑わせていた。また、当時は、その日本現法の幹部と東京電力の間で定期的に秘密裡の打ち合わせが行われていた。福島第一原発事故の時に指揮を執っていた某会長(当時は副社長)もその打ち合わせに参加していたことを覚えている。当時の電力会社は政府からの圧力に相当な危機感を持っていたのであろう。

しかし、2001年の夏頃になり、その米エネルギー会社において、日本の電力自由化に対して懐疑的な意見が増してきた。電力会社はその巨大な経営基盤を背景として、小売で競争しようとする会社に価格で対抗しており、市場競争が促進されていなかった。しかし、その自由化が進まない根本的な原因は、日本の電力の自由化の方法に構造的な問題があったと記憶している。

2001年5月にその米エネルギー会社が発表した『日本電力市場の改革への提案』というレポートがある。本日、インターネットで、その提案書を10数年ぶりに読んでみたが、その構造的な問題を指摘している。その主な問題は、電力会社による垂直統合型の組織形態と、地域独占体制、そして家庭向けも含む小口需要家市場を保護している点である。結局、懸念していた通り、電力会社による強い抵抗によって、発送電の垂直統合の組織は解体されなかった。また、電力会社にとって利益の源泉である家庭向けの規制緩和は行われず、電力自由化は中途半端な形でしか進まなかった。

今回の政府による電力の小売りの完全自由化、発送電の分離を目指すという方針は、10年以上前の失敗から学び、その構造に対して、本格的なメスを入れようとしたものである。しかし、何故、今になって自由化を推進しようとしているのであろうか。

まず、政府が電力の完全自由化を推進する背景は福島第一原発の事故にあることは間違いない。東京電力に対する激しい世論の批判の中で、『地域独占』と、『発送電一貫体制』の見直しに動いたのが大きなきっかけであり、国有化したことによって政府主導によって自由化が行える環境が整ったということであろう。

しかし、あくまで推測であるが、本当の理由はTPPによる外圧をきっかけとしているのではなかろうか。上述した、米エネルギー会社が関与していた時代からもそうであるが、日本はアメリカから、日米構造会議等で、様々な分野の自由化を迫られていた。TPPは域内の国において、同じルールが適用されるという仕組みなので、今回もTPPの交渉をトリガーとして、米国、又は、その外圧を利用して利益を享受しようとしている日本企業、そしてそれを後押しする政治家が、経済産業省を動かしたに違いない。

その米エネルギー会社は、ブッシュファミリーとも近いと言われていたが、実は、当時は世間で言われているほど、日本に対してアメリカによる政治的な外圧を利用していなかった。その理由を当時の米国人の幹部に聞いたことがある。その幹部によると、『日本に対して表だって圧力をかけることは、日米の良好な関係保持に寄与しないという米国政府の意向による』ということであった。その説明の際に、当時の橋本龍太郎通産相とUSTR(米通商代表部)のミッキー・カンター代表の間で激しいやり取りをしていたことを連想したことを覚えている。むしろ、外圧と騒いていたのは、日本のマスコミであり、それを利用していた日本の企業であったという印象を持っている。

その後、その米エネルギー会社は日本の電力事業を発電部門のみに残し、トレーデイング部門の活動は石油・ガス等のデリバティブの販売事業へと大きくシフトした。そして、その米エネルギー会社は不正会計疑惑をきっかけとして倒産し、私も4カ月の失業を経験した。当時はまだ30歳を超えたばかりの若かりし頃であったが、あれから10年以上の月日が経った。その年は米国テロ多発事件が起きた年である。

ご参考までに、私が住んでいるアフリカにおいては、最近の電力市場は、IPP(独立系発電事業者)の拡大のみならず、国によっては民営化や、(特に代替エネルギーにおいては)、電力市場の部分自由化の動きが促進している。私はどちらかと言うと、競争を導入する電力自由化に賛成であるが、今となっては電力自由化の強烈な崇拝者でもない。自由化の進め方を間違えると、電力価格が高騰したり、電力不足が起こる可能性もあるからである。是非、日本のレギュレーターには、市場を注意深く観察しながら、問題を一つづつ解決しつつ、自由化を進めて欲しいと願っている。

【参考資料】
http://www.iser.osaka-u.ac.jp/~saijo/warming/00/01/enron1.pdf
http://www.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1302/12/news023.html
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/128330.html
http://eneco.jaero.or.jp/important/japan/japan05.html

2013年5月18日土曜日

ポルトガル人の生き方とは

最近ポルトガルに興味がある。理由は大叔父がブラジル日系一世であったということもあり、その宗主国であることもその理由の一つだが、最大の理由は、同僚のポルトガル人達に“いい奴”が多く、彼らと馬が合うからである。

同僚にポルトガル人達の、その人となりや仕事ぶりを観察しているが、その性格はフレンドリーであるが、控えめで勤勉である。また、人に対して気配りをする繊細な性格は日本人にそっくりであり、親近感を持っている。他の人種に対する差別も極めて少ないという印象である。

先日、ポルトガル人の同僚の誕生日パーティーに行ってきた。チュニジアにいるポルトガル人が10人程集まったが、普段は、その控えめな性格が、酔うと陽気になったり、はしゃいだりする姿を見てるうちに、日本の学生時代の同窓会か、かつての会社の飲み会と錯覚を覚えるほど、その仕草が日本人と似ていると思った。

また、ポルトガル人の背丈や顔も日本人と似ている。一般的な日本人よりも目が大きく、鼻が高く、濃い顔をしているが、黒髪であり、九州や東北あたりにもいそうな顔の奴もいる。そのパーティーで食事をしている時に、隣に座っていたポルトガル人は、私の学生時代の友人にそっくりであった。他にも西郷隆盛の親戚かと思うような奴もいた。

ポルトガル人の何人かと食事をしながら歴史の話をした。彼らの説明によると、ポルトガルは、かつては七つの海を制した言われるほど、繁栄していた時代があったという。南米ではブラジル、アフリカではモザンビーク、アンゴラ、ケーブ・ベルデ、サントメ・プリンシペ、アジアでは、マカオ、東ティモールがかつてのポルトガルの植民地であった。普段は控えめなポルトガル人であるが、かつての歴史を語らせた時はそのプライドを覗かせていた。そういえば、以前マカオに行ったときに道路の標識が全て広東語とポルトガル語であった事を思い出した。現在は繁栄著しいブラジルに職を求めて移民するポルトガル人も多いという。

私が、16世紀に日本に鉄砲(火縄銃)の技術を伝えたのも、キリスト教を伝えたのもポルトガル人である事を伝えたら、知らない人が多く驚いていた。日本語のカステラ、ビスケット、カルタ、タバコ、天ぷらも全てポルトガルからの外来語である事を伝えたら、ポルトガル人は大喜びであった。

そのパーティーにはスペイン人も何人か来ていたが、その性格はポルトガル人とは大きく異なる。あくまで私の主観であるが、スペイン人の方が多弁であるが、多少ドライであり、ポルトガル人の方が若干恥ずかしがり屋であるが、人懐っこい(ウェット)であるという印象である。

更に、かつてはハプスブルグ家が繁栄していた16世紀頃には、ポルトガルはスペインに併合されていたことを指摘したら、ポルトガル人達は露骨に嫌そうな顔をしていた。『偶々、ポルトガル王国がハプスブルグ家に併合されていた時期はあるが、スペインとポルトガルとは歴史も民族も大きく異なる』と近くにいたスペイン人を気にしながらコメントしていた。隣国との関係も微妙なところもあるようである。


さて、そのポルトガル人であるが、皆、踊りがうまい。サルサをおどらせたたら天下一品である。サルサはカリブ海の文化であり、今までコロンビア人やキューバ人に散々その華麗なる姿を見せつけられてきたが、カリブ海とは関係ないポルトガル人がここまでサルサがうまいとは知らなかった。その女性をリードする姿に、普段は控えめであるが、人生を楽しむポルトガル人の生き方を垣間見た気がした。ポルトガル人の男はプレイボーイの資質が高いようである。


かつて日本では、戦国武将の織田信長や豊臣秀吉らがポルトガル人を重宝し、『南蛮貿易』を後押しした。その後、薩摩や長州の大名が南蛮貿易で財力を増したり,カトリックに改宗したりするようになった話は有名である。ポルトガル人は、フレンドリーな笑顔と、人の心を読む洞察力をもって戦国武将をも取り込んでいったに違いない。

現在はEUの危機で憂き目を見ているポルトガルであるが、かつては、小国でありながら、七つの海を制した言われるほど繁栄していた。そのパーティーにおいて、ポルトガル人の控えめで、フレンドリーではあるが、そのしたたかさを垣間見た気がした。ポルトガルを決して侮ってはいけない。

2013年5月8日水曜日

エル・ジェム(円形闘技場)

週末にエル・ジェムに訪問した。ローマ帝国では3番目に大きい『円形闘技場』を擁する街である。かつては古代都市のシドラスという場所であり、オリーブオイルを中心に栄えた交易都市であったという。

今回はチュニスに住む、エキスパッツ(外国人駐在員)で構成している『探検グループ』と共に行動を共にした。友人に紹介されて、初めて参加したグループだが、色々な人がいて面白い。男女からなる、アメリカ人、ドイツ人、ブルガリア人、スロベニア人、チュニジア人のグループであった。年配の方が殆どであるが若者も交じっている。後になってわかったが、探検とは名ばかりで単なる旅行好きが集まるグループであった。

チュニスからルアージュ(乗合バス)で現地に向かうこと約2時間。会話のほとんどは英語だったが、多少ブロークンだろうが訛りがあろうが、皆お構いなしだ。この手のグループは何の利害関係もなくて気軽でいい。国籍も人種も年齢も男女も全く関係ない。その人がフレンドリーで親切か、又、その人が面白いかが重要な点である。道中、馬鹿話をしながらすぐに打ち解けた。

自己紹介をしたり、途中で高速のインターンで休憩をしたり、趣味の話をしているうちにエルジェムに着いた。そして、ルアージュから降りて、歩くこと数分。突然、巨大な『円形闘技場』が現れた。殆ど砂漠化して何もない街にそびえ立つ闘技場は神がかり的な存在に映る。この円形劇場は2世紀頃に建設されたというが、収容人数が3万五千人であるというのだから、横浜球場(収容人数3万人)よりも大きい。かつてのローマ帝国の建設技術のレベルの高さを見せつけられた。

そして、円形闘技場の中に入った。昨年、ローマのコロッセオに訪問したが、エルジェムの闘技場はその迫力とあまり変わらない。多少コロッセオの方が洗練している感じがするが、エルジェムの方が保存状態が良く、見ごたえがあった。19世紀も経て、現在でも利用されているのだから奇跡的である。乾燥している気候がその保存を助けたのであろう。

観客席に登り、闘技場を見下ろしたが、ここから見えるスペクタクルは壮大であったのであろう。ローマのコロッセオでもそうだが、ローマ帝国時代にはグラディエーターと呼ばれる剣闘士同士の戦いや、剣闘士と猛獣の戦いが行われ、観客を魅了したという。

円形闘技場の地下には剣闘士や猛獣を収容するスペースがあった。戦いの一方が殺される運命であるが、死闘が始まるまでの待合室である。19世紀前の剣闘士の汗や、動物の匂いが漂いそうな生々しい場所である。

この円形闘技場は、7世紀末にはアラブ軍と、現地のベルベル人の軍の間で戦いが行われたという。ベルベル人の女王のカヒナは、円形闘技場に立て籠もり、炎に身を投じて命を絶ったというのだから本当に劇的(メロドラマティック)な舞台であったようだ。

円形闘技場が見渡せる場所で、昼飯を食べながら、グループの人の話を聞いた。それぞれが、チュニジアに来た理由は様々で面白かった。ヨーロッパは所得税が高くて、チュニジアに移住して翻訳事業を行っている人、アメリカのフォーチュン100の企業に勤めたが、娘がチュニジア人と結婚したので、チュニジアに移り住み老後生活を送っている人、ヨーロッパの政府から派遣されたインターン、企業駐在員、医者、学生等、まさに“人生色々”である。国籍も人種も年齢も男女もバラバラであるが、この人たちとチュニジアでこのようにして出会えたのも何かの縁だろう。旅行に関しても、チュニジアではあそこが面白いとか、あそこは失望したとかそれぞれ意見を持っていた。エル・ジェムに関しては、初めて見る人が多く、どの人もその壮大さには驚いていた。

その後、モザイク画の美術館を訪問した。ローマ時代のモザイク画は動物や自然の風景が多い。動物も猛獣を扱うケースが多く、ローマ時代には猛獣を畏怖していた様子がわかる。これも円形闘技場の影響なのであろうか。

またキリスト教徒の絵が多いのが印象的であった。ローマ時代の当初はキリスト教は迫害されていたが、徐々にキリスト教は影響力を増す。テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言する。チュニジアにおいても、その影響を受けて、モザイク画もキリスト教徒の絵が多くなっているのがわかる。

チュニジアは遺跡の宝庫であるが、このような素晴らしい場所で、日本では中々出会えない多様な人々と共にチュニジアを探検出来たのは楽しかった。山崎豊子著の『沈まぬ太陽』の主人公の恩地元は『週末ハンター』であるが、私の場合は『週末(中年)バックパーカー』になるのであろうか。祖国から離れている寂しさはあるが、アフリカ大陸でこのような貴重な体験ができることに感謝している。

2013年5月1日水曜日

チュニジアのモザイク画(塗り替えられた歴史)

ローマの住居から見える風景
(奥が大統領官邸と地中海)
カルタゴの海沿いにある大統領官邸やアントニヌスの公共浴場より少し内陸側に登ったところに、ローマ人の住居地跡がある。その高台からの見晴らしは素晴らしく、かつてのローマ人が最高のロケーションを確保していたことがわかる。

その丘を更に少し登るとローマ劇場の遺跡があり、少し離れたところには円形闘技場の遺跡がある。かつて、ローマ人が娯楽好きであった生活が容易に想像がつく。また、住宅近くには、小規模な貯水場も確保していたことから、ローマ人は公共浴場に行くのみならず、自宅にも浴槽があり、風呂好きな民族であったようだ。


そのローマ人の住居跡であるが、嘗ては、ローマ人のみならず、異なる民族も住んでいたという。そこにはポエニ人(ベルベル人とフェニキア人の融合)、ヴァンダル人、ビザンチン人が住み、侵攻した民族が破壊と建設を繰り返して、侵略した土地の上において歴史を塗り替えていった。

現在は観光地になっているそのローマ人の住居跡であるが、本日、そこに入ると、何処からともなく現れた年配の男が話しかけていた。その男によると、その住居跡には異なる文化のモザイク画が存在し、民族によって特徴が異なるという。その男の話が興味深かったので案内をお願いした。

ローマ時代のモザイク
(ボリエールの別荘にて)
まず、その案内人が入口の奥にある洞窟に案内してくれた。薄暗い洞窟の中には、数々のモザイク画が無造作に立掛けてあった。考古学者が掘り起こしたものであるという。宝の山がそこら中に転がっているのには驚いた。

そのモザイク画は土埃を被っていたが、案内人が水をかけてくれ、そのモザイク画の様子を見ることができた。

ローマのモザイク画は幾何学的な模様であり、その模様は動物や草花等の自然を対象とする模様が多いようだ。ローマ帝国BC44よりカルタゴの再建をおこない、その支配はヴァンダル人に倒される439年まで続いた。モザイク画はその間に建設された住居の床である。

ヴァンダル人のモザイク
(卍の記号が記されている。)
次に案内人がヴァンダル人(439年~533年)のモザイク画を見せてくれた。興味深かったのは、『卍(まんじ)』の記号が記されていたことである。案内人によると『卍』の記号はインドの太陽のシンボルであるという。後で調べたが『卍』は古代のインド・ヨーロッパ語族の共通の宗教的なシンボルであったようだ。ナチスが利用した『卐(ハーケンクロイツ)』はこの『卍』の記号を逆にしたものである。ヴァンダル人とは北ヨーロッパから来た民族であり、ヴァンダル人とゲルマン民族が重なり合って見えてしまう。

ビザンチン人のモザイク
更にビザンチン人(東ローマ人)(534年~646年)のモザイク画も見せてくれた。ビザンチンのモザイク画の特徴は複雑な模様にあり、しかも左右対称の絵柄であるという。ビザンティン帝国にとってモザイクは重要な文化であり、今までのローマ人やヴァンダル人のモザイク画が更に発展した形であるのがわかる。

洞窟を出て更に進み、かつてのポエニ人の住宅の遺跡を案内してくれた。その住宅の面影は1か所しか見られないという。ローマ人は嘗てのポエニ人の街を徹底的に破壊し、その上に、新たな都市を構築したのは有名な話である。案内人によると、ポエニのモザイク画はローマのそれより約80cm下の断層に埋まっていたという。考古学者がポエニ人の住居を掘り起こした時は大発見であったに違いない。


ポエニ人の住居の跡(床のモザイク画)

写真の如く、ポエニ人のモザイク画は朱色の下地に白い斑点があるのが特徴のようだ。これは先日、ボン岬にあるケルクワンににてポエニ人の住宅を見た際にもほぼ同様の模様であった。

その後、丘を登り、草むらの中に進み、ローマ人、ビザンチン人のモザイク画が実際に土壌の上に存在する場所に連れて行ってくれた。


今後は丘を下り、ローマ人の住居を見た。そこは『ボリエールの別荘』といわれる屋敷の後であるが、列柱回廊や、中庭、床のモザイクが残っていた。モザイク画は動物や花や草、馬の絵柄が多かった。数々のローマ神の彫刻も残っていた。

購入したローマ時代の
本物?のコイン
最後に案内人が教えてくれた。土砂降りの大雨が降った後には、嘗て使われていた貨幣(コイン)が出土することがあるという。

そして、その案内人はポケットから、幾つかのコインが取り出し、私に見せてくれた。全て異なる表記や形状のコインである。手に取って観察をしてみたがどのコインもくすんだ色をしており、殆どは形状がデフォルメしていたり、文字が読めなかったりする。しばらく、眺めてみたが、どう見ても本物にしか見えない。これらは案内人が大雨の後に見つけたコインであり、私に対して特別に売りたいという。

価格交渉の上、そのコインの一つを買った。くすんで見にくいが、嘗てのローマ帝国の皇帝と、その裏にはその皇帝が馬の乗った姿が映し出している。本物であれば、ローマ帝国時代の1600年前から2000年前のコインということになる。

コインを買い、子供の頃に玩具を買った気持ちになった。嘗てのローマ帝国の銅のコインである。ロマンを感じるには十分すぎるほど希少な玩具ではなかろうか。

【参考資料】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8D
http://en.wikipedia.org/wiki/Mosaic
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%84

2013年4月30日火曜日

多神教と一神教の違いとは



農耕の神サトゥルヌスの神殿
(フォロ・ロマーノ)
塩野七生著の『ローマは一日にして成らず』によると、ローマ帝国における宗教は多神教であり、ローマを強大にした要因は、ローマ人にとっての宗教とは精神的な支えに過ぎず、他の宗教に対しても排他的ではない性格にあったという。ローマの神とはあくまで“守り神”の役割を担っていたようだ。

昨年の夏にローマに訪問した際にも、先日ドゥッガに訪問した際にも、ローマ帝国時代に建てられた神殿の数の多さに驚いた。ローマの宗教とは、他の民族の神を排除しないどころか融合させ、自らの神として取り入れていったようだ。

ローマ市内にあるフォロ・ロマーノに訪問した際には、農耕の神の『サトゥルヌス(上記写真)』や火の神の『ヴェスタ』、女神の『コンコルディア』、そして『アントニヌス帝』やその妻の『ファウスティーナ』の神殿が祀られてあった。ローマ帝国は数々の守り神を創ったのみならず、時の為政者までも神格化して祀っていたようである。
海の神ネプチューン神殿
(ドゥッガ)

ご参考までに、ローマの神話はギリシャ神話の影響を多大に受けており、ギリシャの神をローマ神話にも取り込んでいる。例えば『ユピテル』は元々ギリシ
ャの神の王である『ゼウス』であるし、その妻の『ユノ』はギリシャ神話の『ヘラ』である。海の神の『ネプチューン』は『ポセイドン』からきている。

先日、ドゥッガを訪問した際には、ローマ神話の主神である『ユピテル』や、学業・商業の神である『ミネルバ』や、海の神『ネプチューン』、太陽の神である『ソル』、死者の神である『プルトン』、その他、カルタゴの主神である『バール・ハモン』やその妻である『タニト』までも祀られていた。

バールハモン・サトゥルヌス神殿
(ドゥッガ)
カルタゴの『バール・ハモン』はローマ神話の農耕神である『サトゥルヌス』と一体化され、『タニト』は、ユピテルの妻である『ユノー』に一体化されていったようである。支配した民族の神を排除せず、ローマの神と一体化することによって、融合化を図っていった意図が垣間見れる。


ところが、ローマにおいてこの寛容な多神教の風土が、徐々に一神教の文化に傾いていったようだ。313年のコンスタンティヌス皇帝が勅令したミラノ勅令によって、キリスト教は他の全ての宗教と共に公認される。更に、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。ローマ帝国においては上流階層による古典(多神教)信仰はその後もしばらく生き残っていったようであるが、その後、ヨーロッパ全体がキリスト教に染まっていったのは周知の事実である。

北アフリカにおいては、3世紀末からキリスト教が先住民を取り込むようになっていたという。スース等の各地域においてキリスト教の古代教会のカタコンベ(地下墓地)が発掘されており、ドゥッガにおいてもビクトリアの教会という4世紀後半から5世紀に建てられた教会の遺跡を見ることができる。  
シディ・ウクバ・モスク(ケロアン)

その後、7世紀より、アラブによる征服と支配下で、イスラム化が進み、キリスト教徒の数は激減した。ケロアンにはマグレブの最初のイスラム寺院、グランド・モスクが建設され、聖都として重要な役割を担った。
 
当時のチュニジアにおける政治、軍事並びに文化の中心地はケロアンであり、スンナ派四代法学派の一つであるマーリク派の法学派が発展し、多くの留学生が近隣諸国から集まったという。現在でもケロアンはイスラム世界ではメッカ、メディナ、エルサレムに次いで4番目に重要な都市である。
 

シディ・ウクバ・モスク(ケロアン)
先日、そのグランドモスクである『シディ・ウクバ・モスク』を見学したが、その壮大さには圧倒させられた。モスクの中に入ると、7世紀以降のチュニジアが急速にイスラム化していった理由がわかるほど、人々を惹きつける圧倒的な力強さを感じた。

現在、チュニジアの人口の98%がイスラム教徒であると言われている。サウジアラビア等に比べると戒律が厳しくないといわれているチュニジアでさえもイスラム教は社会や人々の生活の中に深く根ざしている。私が知るだけでも、その宗教観は日本人のそれとは全く異なる。
 

一体、一神教と多神教の違いは何なのか。上述した『ローマは一日にして成らず』によると、『一神教と多神教のちがいは、信じる神の数にあるのではなく、他の神を認めるか認めないか』にあるという。そして、『他者の神を認めるということは、他者の存在を認めるという』ことであるという。
過去の歴史を振り返ると、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の一神教による宗教の紛争は絶えない。中世の『十字軍』から、近代の『中東戦争』の紛争は多くの人が知るところである。最近は『湾岸戦争』や、『9.11』、そして、その後のイラク、アフガニスタンの紛争等も、宗教紛争の側面を持っており、その例は枚挙にいとまがない。

イスラム教も、ユダヤ教も、キリスト教も、元を正せば同じ神を崇拝している。どちらも自分たちが正統だといい、相手を異端と決め付けており、これらの対立が起こる事自体が非常に残念でならない。 ローマ時代にはその寛容的な思想により、宗教戦争は一切起きていない。かつてのように、他者の神、更には、他者の存在を認め、宗教対立がない世界に戻ることができないのであろうか。

参考資料】
ローマは一日にして成らず(上)、塩野七生著
チュニジアを知るための60章
DOUGGA, Mustapha Khanoussi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
http://en.wikipedia.org/wiki/Baal-hamon