2013年1月19日土曜日

革命の季節(日本赤軍とパレスチナ)

『革命の季節』を読んだ。元日本赤軍の重信房子が医療刑務所で綴ったという本である。

この本をチュニジアで読むことは意義があることかもしれない。チュニジアは1980年代の一時期、パレスチナ解放機構(PLO)の本部が存在したところである。

私は1970年3月生まれであり、同月に『よど号ハイジャック事件』が発生した。その2年後には連合赤軍による『あさま山荘事件』が起き、警察が浅間山荘に突入する姿が全国に生中継されたという。しかし、私が物心がついた頃には国内の赤軍派はほぼ消滅しており、海外で活動していた日本赤軍の活動も衰退していた。従い、少年期における赤軍の記憶はほとんどない。わずかに、小学校の近くの交番で、国際指名をされたいた日本赤軍メンバーの写真を見ていたことや、図書館で過去の新聞の縮刷版から、よど号事件の記事を読んで驚いたことぐらいであろうか。

日本赤軍を意識し始めたのは何時ごろだっただろう。学生時代、欧州を旅行していた時に年上のバックパッカーから『日本赤軍が活発だった頃には、日本人がヨーロッパに入国する際には入念にチェックされた』という話を聞かされたことや、タイに旅行していた時にイスラエル人から『かつてテルアビブ空港で銃を乱射したJapanese Red Armyというグループがいた』と教えられ、平和な日本人とは異なるイメージを世界に植え付けた日本赤軍の存在を知り始めた。また、学生時代には、中南米の歴史の一端として、チェ・ゲバラの革命活動を学び、世界的な共産主義革命の背景について知った。その後社会人になり、文藝春秋等で様々な記事を読み、日本赤軍が海外で起こした事件については知識としては断片的に学んでいったが、敢えて海外で革命を起こそうとした動機や背景については正直あまり理解できていなかった。

私は20代の頃、日本の商社において、政府開発援助(ODA)のプロジェクトに携わった。1993年のオスロ合意の結果、パレスチナ解放機構(PLO)は武装放棄をし、イスラエルとの間にパレスチナ暫定自治協定が締結された。それに対応して、日本政府は1996年にパレスチナに対して2か国間政府開発援助を開始する。そのような背景から、私はパレスチナ自治区であるヨルダン川西岸の病院案件の担当となった。残念ながら現地には訪問できなかったが、入札に参加し、来日したパレスチナ人と協議を行い、エックス線をはじめとした様々な医療機器の輸送の手配をした。その病院は、現在でもパレスチナ人に『日本病院』と呼ばれ親しまれているという。パレスチナ人の政府高官とは数日において食事を共にしながら、パレスチナ建国についての夢を聞かせてもらった。

ちなみに年末、東京で『某アフリカの投資セミナー』を開催した際に、当時、イスラエルの駐在員で、その病院プロジェクトの現地担当だった先輩に偶然会った。15年ぶりの再会である。その先輩は2000年代にも再びイスラエルに駐在したが、その際にはヨルダン川西岸には入国できず、その病院に訪問することができず悔しい思いをしたという。

『革命の季節』では、重信房子が1972年テルアビブ国際空港作戦から40年たった今、奥平剛士・安田安之・山田修・檜森孝雄・丸岡修と闘った日々を語っている。日本における赤軍派の学生運動から、海外における闘争活動を実施するまで、当時の未熟な正義の心の在り様を綴っている。私はテレアビブ空港事件等で一般人をも巻き添えにした日本赤軍の活動に対して弁護するつもりは一切ないが、一方で、パレスチナ人自身が過去の歴史や、自治権が確立されていない状況に対して憤りを感じるのは当然であり、それに共感する気持ちは理解できる。

イスラム国に住み始めて感じた事は、アラブ人が西洋人に対して潜在的に持つ不信感は予想以上に深いということである。この感情が、昨年9月に発生したチュニジアを含むアラブ国諸国によるアメリカ大使館やアメリカンスクールに対する襲撃や、今週起こったアルジェリアのBPガス施設における誘拐事件に繫がっているのは事実であろう。私は、これらの事件を起こしたイスラム過激派の行為は卑劣であり、憤りを感じているが、しかし、この問題は西洋諸国がアラブ諸国を対等に扱ってこなかった長い歴史に起因するとも思っている。お互いの尊厳を認めて、対等に付き合える日がいち早く来ることを願っている。

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