2013年1月22日火曜日

マリ共和国の軍事紛争(2) トゥアレグ族とイスラム過激派

アンサールディーン指導者
Iyad Ag Ghaly
『マリ共和国の軍事紛争(1)』において、トゥアレグ族中心のアザワド解放民族運動(MNLA)及びイスラム過激主義武装組織の活動について述べた。軍部のクーデター後、2012年4月にMNLAは北部の独立宣言したが、その後、トゥアレグ族から、権力がイスラム過激主義武装組織に移行したという内容である。

ここで権力がMNLAからイスラム過激主義武装組織に移った背景について説明したい。ちなみにMNLAから実権を奪ったイスラム過激主義武装組織は200~300人に過ぎないという。

まず、トゥアレグ族はベルベル系の遊牧民であるがアフリカに約2~3百万人程存在し、中央サハラ並びにサヘル(サハラ砂漠南部地帯)を中心に活をしている。その多くはマリに居住しており、その数は80万人程度であるという。1960年にマリがフランスから独立して以来、トゥアレグ族による反乱が5回発生している。ニジェールでは反乱が3回、アルジェリアでは散発的に社会不安が生じているという。

直近のMNLAの反乱は2012年の1月にマリにて勃発している。MNLAの大多数は2011年の10月にリビアから戻ってきた兵士達であり、その総勢は約3000人といわれる。2012年3月、MNLAは政府の軍隊をマリの北部から駆逐する。マリ政府軍の武器は老朽化しており、政府軍は殆ど抵抗もなく撤退したようだ。実はマリの軍部による政府転覆のクーデターは、このMNLAの事件が発生した後の3月22日に起こっている。MNLAによる反乱後、軍部は政府に対してMNLA対策として武器の充実を求めたが拒否をされた為である。MNLAはこの軍部のクーデターに乗じて、1週間以内に北部のKidal、Gao、Timbuktuを掌握し、4月5日にアザワドの独立を宣言する。

しかしこの独立は国際社会の支援を得られなかった。その理由はMNLAはアンサールディーン(Ansar Al-Din)並びにMovement for Unity and Jihad in West Africa (MUJAO)と同盟を結んでいた為である。アンサールデーンとMUJAOも、イスラム過激主義武装組織であり、アルカイダ系の「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」に支援されている。

2012年の5月より、イスラム過激主義武装組織(アンサールディーンとMUJAO)がアザワドにおいて、MNLAから政治的及び軍事的な奪取を試みる。6月にはMNLAとイスラム過激主義武装組織の対立が拡大し、戦闘が開始された。結果としてMNLAは北部の町のGaoから追放され、政治的にも影響力が限定された。その後、イスラム過激主義武装組織はKidal、Gao、Timbuktuにおいてシャリア(イスラーム法)を強要するようになる。昨年の8月までに50万人が町から逃走したか、殺害されているという。現在、即決死刑、切断、投石死刑等の残虐行為が国際刑事裁判所にて調査されている。

このアザワド解放は部族問題に限定されず、宗教や、近隣諸国との関係とも複雑に絡んでいる。このイスラム過激主義者自身も民族的にはトゥアレグ族である。しかし近隣諸国のイスラム過激主義者(サラフィスト)やアルカイダと連携しているのが問題を複雑化しており、外国人には解りにくいところである。

少し話がそれるが、私の同僚のニジェール人は母親がトゥアレグ族であるが、サブサハラのアフリカ人とのハーフなので見かけは解らない。宗教もイスラム教徒とは無縁である。同僚(女性)はアルジェリア人であるがベルベル人である(トゥアレグ族もベルベル系)。パリで教育を受けたのでフランス語はNativeであるが、実家ではベルベル語を話すという。イスラム教徒であるがシャリアとは縁もなく、普通にワインも飲むし、ファッションも欧米人と変わらない。アフリカは民族問題が大きな問題であるが、しかし、民族でステレオタイプ的な判断ができないのも複雑なところである。

フランスは既に軍事介入を始めたが、この問題は長期化及び泥沼化するような気がしてならない。第二のアフガニスタン、イラクになることを避けるためにも、アフリカ諸国と共に解決のスキームを検討するべきである。

 

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