2013年10月26日土曜日

パブロ・ピカソ(アフリカと日本との関係)

先週末のパリ滞在中に『ピカソ美術館』に訪問したが閉館していた。現在、改装中であり、来年の夏頃に再開するという。楽しみにしていたピカソの絵を見ることができず残念であった。

パブロ・ピカソ(1881~1973)は誰もが知るスペインの画家であるが、パリで人生の大部分を過ごし、そしてパリで人生を終えた芸術家である。ピカソ美術館は、ピカソの遺族が相続税として物納した作品が多く、その収蔵数は約5000点にも上る。作品は、青の時代、ばら色の時代、キュビスム、新古典主義、シュルレアリスムと年代順に展示されており、ピカソの画風の変化をたどることができる。

私は芸術センスのかけらも持ち合わせておらず、自らが真面目に描いた絵がピカソに似ているといわれることが理由ではないが、10代の頃、バルセロナにあるゲルニカを見て感動したこともあり、ピカソに興味を持った。その数年後に今回入館できなかったピカソ美術館にも訪問したが、その際には、ピカソが若い頃に描いた写実的な絵画を見て、その誠実な絵のスタイルに驚いたことを覚えている。美術館では、ピカソの絵画が時代と共にデフォルメしていき、最終的に独自のスタイルに辿り着く経緯が大変興味深かった。

かつて、ピカソ美術館に訪問する前は、ピカソは狂人であるが故に、そのような独自の世界を描くのであろうと思っていたが、美術館に訪問した際にはその考えを改めた。ピカソの絵画とは、様々な文化を取り入れて、徐々に本来の写実的な絵から変貌していったという印象をもった。ピカソは天才ではあるが、持って生まれた狂人ではなさそうである。

アヴィニョンの娘たち
Les Demoiselles d'Avignon
(1907)
その影響された文化とは紛れもなくアフリカ文化であり、そして日本文化である。ピカソ美術館に訪問した際は、20年以上も前のことなので、ほとんどの絵の内容は忘れたが、ピカソの絵の何枚かは明らかに日本の浮世絵の影響があると思ったことをはっきりと覚えている。

今回、その変貌していくピカソの一連の絵をもう一度この眼で見て、海外の文化からどのような影響を受けたか観察したいと思っていたが、その希望が叶わなかった。

従い、その若かりし時の好奇心を呼び起こす為にも、その疑問点についてインターネットで調べて見た。前回、ピカソ美術館に訪問した頃はインターネットはなかったが、現在、美術館に行かなくてもかなりの情報を入手できる。時代が大きく変わったことを認識した。

調べたところ、やはり、ピカソは1906年から1909年の間はアフリカ芸術に強い影響を受けていたようだ。当時のフランスは、アフリカの植民地政策の影響もあり、多くのアフリカの美術がフランスに運ばれたという。ピカソの絵である『Les Demoiselles d'Avignon』の右端の二人の絵はアフリカの影響を受けたと言われている。

一方で、ピカソが日本の絵画から受けた影響について、喧々諤々議論がされているようである。一説によると、フランスで活躍したアメリカ人女流文学者ガートルード・スタインが日本の絵をピカソに見せた際には、『日本の絵は好きではないね。』と語ったようだ。しかし、ファイナンシャルタイムズの記事で指摘しているように、ピカソの絵は本人の虚勢とは裏腹に、日本の絵画から大きく影響を受けているようだ。それはピカソの当初の作品に少し見られ、最後の10年間の官能的な絵に大きく影響していたようである。ピカソの『Raphael and La Fornarina』礒田湖龍斎の春画が影響したと言われている。

ピカソが海外の手法を取り入れて、西洋絵画の伝統を打ち破ったのは間違いない。アフリカと日本の芸術がそれに貢献していた意義は大きいのではなかろうか。

【参考資料】
http://www.musee-picasso.fr/homes/home_id23982_u1l2.htm
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/3e6adb38-f4cd-11de-9cba-00144feab49a.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AB%E3%82%BD
http://news.mynavi.jp/news/2013/02/04/166/
http://www.musee-picasso.fr/homes/home_id23982_u1l2.htm

2013年10月21日月曜日

パリの思い出(日航と弁慶)

セーヌ川の夜景が一望できるレストラン『弁慶』。ここの鉄板焼きは格別である。料理、サービス共全ての面で細かい配慮が行き届いている。シェフは全て日本人であり、ウェイトレスやウェイターも多くの日本人が従事している。週末ということもあり、リラックスしたフランス人の多くの家族やカップルが集まっていた。

鉄板焼きはブランデーを使って、炎を高く上げたりはするものの、アメリカのBenihanaのような、包丁で鉄板を奏でるようなエンターテイメントの要素は少ない。落ち着いている雰囲気であり、正真正銘の日本の空間がそこにある。

チュニジアから来たお上りさんの私にとってセーヌ川の夜景は眩しい。しかし、年老いた両親と共に海外でこのように食事をする機会は貴重である。1週間ほど、チュニジアに滞在した両親と、日本のビールと鉄板焼きを堪能しながら、次の日の別れを惜しんだ。

実は、この弁慶には10年以上も前に妻と幼少の娘と訪問したことがある。パリ旅行滞在中のせめて一回は高級なレストランに行こうと決めており、フランス料理でなく弁慶を選んだ。和食がないと生きていけない私の我がままを聞いてもらったことになる。パリに出張していた義理の姉も参加した賑やかな思い出である。

現在、この弁慶はノボテルホテル内にあるが、かつては日航ホテルにあった。料理人によると、2002年に日航がノボテルにこのホテルを売却したという。この頃は日航の経営が傾き、ホテル等のノンコアビジネスの資産を売却していた。パリの日航ホテルは日航のスチュワーデスの常宿となっていた華やかな場所でもあった。

このような思いでもあり、私にとっては弁慶とかつての日航が重なって見える。おもてなしのサービスをするという共通の場所でもある。

振り返れば、かつての日航のサービスは他社と比較しても格別であった。海外出張後にJAL便に乗ったときのほっとした気持ちが今でも忘れられない。JALのグローバル会員になるために必死でマイレージを集めていたのが懐かしい。

現在、日本航空は再上場し、再び成長するべく目論んでいるようである。しかし、LCC等との競争もあり、益々のコストの削減が必須となるだろう。人件費のみならず、エアバスに調達先を分散化したのもその一環と思われる。

パリ、弁慶、そして日本航空と懐かしい思い出である。本日は、両親と共に再び、思い出の場所に来れたことに感謝している。

2013年10月20日日曜日

フランスとチュニジアにおけるシナゴーグについて

花の都、パリ。そこはかつてのヨーロッパ人よる都市から変貌し、様々な人種が集まる坩堝となっている。この兆候は過去20年間、パリに来る度に加速しているような印象を受ける。現在、街のあらゆる所でアラブ人、アフリカ人、そしてアジア人が働いている姿が見られる。

フランスの人口は約6500万人であるが、アラブ系の人口は600万人から700万人といわれている。これらのアラブ系住民の大半は、かつての植民地や保護地であったマグレブ諸国(アルジェリア、モロッコ、チュニジア)より、1970年以降に急増した移民や移民の子孫である。そのほとんどがイスラム教徒ということを鑑みれば、フランス人の10%以上がムスリムということになる。移民又は移民を親に持つ人口は全体の20%にも昇るという。

そしてフランスはユダヤ人との歴史も深い。1787年に起こったフランス革命を機にユダヤ人は市民権を得て、他国からユダヤ人の移民も増えたという。現在、60万人のユダヤ人がフランスに住んでいるといわれ、フランスはアメリカ、イスラエルに続いて3番目にユダヤ人が多い国となっている。

そのパリであるが、オペラ座の近くに『シナゴーグ‐ドウラ‐ビクトワール』というヨーロッパ最大のシナゴーグがある。外見は近辺の石造りの建物と何ら変わらず、一見シナゴーグであることが判りにくい。しかし、よく観察すると正面玄関の上部にヘブライ語の記述がある。本日は土曜日にてシナゴーグが閉鎖されていたが、警備員によるとその中には大きな礼拝堂があり、金曜日の礼拝には多くのユダヤ人や集まるという。

一方で、私が住んでいるチュニジアのラファイエット地区というところにもシナゴーグがある。この建物は入り口付近が有刺鉄線で囲まれており、大勢の警備員に取り囲まれている。正直、重々しい雰囲気を醸し出していることは否めない。歴史的にはチュニジアにおいては、ユダヤ教徒とイスラム教徒が協力して暮らしていたが、1956年のフランスからの独立により、チュニジアはアラブ諸国の一員として正式にムスリム国家となった。これによりユダヤ人はチュニジアにおいて事実上の部外者となったという。

友人に聞いた話であるが、独立後、ダウンタウンのにあるユダヤ人墓地(私有地)は公共の施設となり、襲撃を受けたこともあったようで、現在は荒れ果てているという。確かに、Kheireddine Pacha通りから墓地を見たが、まったく手入れがされていないという印象を受けた。ユダヤ人は1956年以前には11万人いたが、現在は2千人未満となっており、その多くがイスラエル又はフランスに移民していった。

先週末にチュニジアより南西100KMに位置するテストゥールに訪問した。この街は17世紀においてスペインのアンダルシアから移り住んだ人々が築いた街で有名である。移民した人々は1492年のグラナダ陥落後のキリスト国家になったスペインにおいて、キリスト教に改宗することを拒否したイスラム教徒とユダヤ教徒達である。

テストゥールのモスクを見た際には、ダビデの星のサインが飾られているのには驚いた。これはイスラムとユダヤ教徒の融合の印であるという。かつてチュニジアはイスラム教徒とユダヤ教徒がお互い協調して住んでいたことを表す一例である。テストゥールはコルドバのユダヤ人街に似ているこじんまりした好印象の街であった。

フランスにおいて、ユダヤ教徒とキリスト教徒において問題がないわけではない。しかし、近年のフランスとチュニジアにおいて、ユダヤ人への対応とその歴史は大きく異なるようである。本日はパリにおいて、“美と洗練を誇るパリ”のみではなく、移民、そしてユダヤとムスリムについて考えさせられた日であった。

2013年10月18日金曜日

ベルベル人とフェニキア人の融合(ポエニとは)


日本ではポエニ(英:Punic)とはフェニキア人のことを指すと言われているが、チュニジア人に言わせるとその意味合いは多少異なるようである。ポエニとは、紀元前8世紀前から北アフリカに住んでいたベルベル人と、テユロス(レバノンのスール)から来たフェニキア人の融合した民族、又はその融合した文化を指すようである。

その二つの文化であるが、ギリシャに敗北したヒメラ戦争(紀元前480年)後にその融合が急速に進んだようだ。フェニキア人の神であるバールはベルベル人の神であるアモンと融合し、バールハモン(Baal-Hammon)となり、フェニキア人の女神のアスタルトはベルベルの女神であるタニト(Tanit)と統一していったという。第一次ポエニ戦争が始まる紀元前3世紀頃にはこの二つの民族は完全に一体化していったようだ。

さて、このベルベル人と、フェニキア人の二つの民族の遭遇はどのように起こったのであろうか。昨日、カルタゴにあるローマ住居に訪問した際に年配のガイドより興味深い話を聞いた。

そのローマ住居はカルタゴの大統領官邸と隣接しており、地中海が一望できるロケーションである。そのガイドが、濃い青色に染められた地中海を指さしながら言った。『中東からディドーが大きな船と共に大勢の家来を率いて、両手を広げながら陸に近づいてきた。』これを見たベルベル人は驚愕の眼差しでその船に見入ったという。紀元前814年頃の話である。日本人が、ペリー来航した時の『蒸気船たった四杯で夜も眠れず。』という心境と同じであろうか。または、マヤ人がスペインから来たコルテスを見たときの驚きに似ているのであろうか。

さて、そのガイドによると、フェニキア人とは、旧約聖書に記載されているノアの孫であるカノン(ハモンの息子)であり、ユダヤ人の末裔であるという。そのフェニキアの都市国家テュロス(レバノン)の国王の娘のディドー(幼名エリッサ)は、叔父のシュカイオスと結婚をしていた。しかし、父の死去の際に、兄のピュグマリオーンと彼女が共同で国を治める旨、遺言されたが、兄が王位の独占と叔父の財産を目当てにディドーの夫である叔父シュカイオスを暗殺し、ディドーも暗殺しようとしたという。そのような経緯から、傷心のディドーは全てを投げ捨てて家臣たちと共に航海で出たという。

そして、ディドーがカルタゴに着いた際に、ベルベル人の王様であるイアルバースに土地の分与を申し入れ、イアルバースには牛の皮(ビルサ)1枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言われたが、その皮を細かく引き裂いて土地を取り囲み、砦を築くだけの土地を得たという。この土地が現在の『ビルサの丘』である。カルタゴとは『カルト・ハダシュト』のローマ読みであり、フェニキア語で新しい町を意味する。

そのディドーの才能を見たイアルバースは彼女に惚れて求婚した。しかし、亡き夫の死の際に決して再婚しないと誓っていた彼女は申し入れを受け入れられなかった。最終的には、イアルバースとの結婚の準備をするという名目で火葬を準備し、『夫の元に戻る』という言葉を残して、剣で自害し、炎に飛び込んだという。悲しい結末である。

その後、ディドーは神格化され、月の神、又、ある時はアスタルト(女神)として崇められた。フェニキア人にもべルベル人にも愛された存在であったのであろう。その後、ディドーはーベルベル人の神であるタニトに融合され、チュニジアの文化に深く刻まれているようである。

昨日は犠牲祭(イード)の為、休日であったが、日本から両親が来て、妻、娘も含めて3世代によるチュニジア見物となった。フランス語と英語が混じったガイドの1時間以上にも及ぶ演説は聞きごたえがあった。日本への土産話に相応しいメロドラマティックなストーリーであり、年老いた両親が大喜びをして聞いていたのが嬉しかった。

【参考資料】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88
http://www.thaliatook.com/OGOD/tanit.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Berber_mythology
http://en.wikipedia.org/wiki/Canaan_(son_of_Ham)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dido_(Queen_of_Carthage)