2013年11月4日月曜日

坂の上の雲~旅順攻囲戦~

『坂の上の雲』とは、明治の時代に封建の世から目覚めたばかりの日本が、登って行けばやがてはそこに手が届くと思い登って行った近代国家や列強を例えたものという。

日本特有の精神と文化が19世紀末の西洋文化に対しどのような反応を示したかを正面から問いかけた作品であると言われている。以前、司馬遼太郎の小説は読んでいたが、夏休みの間に、収録したテレビ番組を日本を想いながら海外で見ることによって異なる感慨を覚えた。

主人公は松山出身の秋山好古、秋山真之兄弟と正岡子規であり、番組では3人の生き方と、日本の未来に向かっていく希望に満ちた時代背景が描かれている。

しかし、日本が近代国家になる道のりは険しかったようだ。清国とロシアという隣国の脅威に晒され、国家一丸となってその脅威から防衛する必要があった。そのような意味で、『坂の上の雲』の“坂”の象徴とは、日露戦争時の『旅順攻囲戦』であるかと思っている。そこでは陸軍の第3軍が1万6千人の死者と、4万4千の戦傷者(延べ数)を出した末に、ロシア陸軍に勝利している。この203高地も含むこの旅順要塞の攻略がなければ、旅順港のロシア艦隊とバルチック艦隊の合流を許し、制海権はロシアに奪われ、日露戦争はロシアの勝利に終わっていたであろう。

歴史に“もし”という言葉はないが、旅順の勝利がなければ、日本はロシアの影響下に置かれ、第二次世界大戦後は東欧のように共産化されていたかもしれない。『旅順攻囲戦』が日本の近代史の大きな岐路であったのは間違いない。

さて、この陸軍の第3軍の戦術に関してであるが、多くの死者を出したことで数々の失敗があったと非難されている。また、司馬遼太郎自身も否定的にとらえているようだ。但し、その評価については様々な議論が行われているようだ。

その主な非難は早期に203高地を攻め、そこからロシア海軍の旅順艦隊を砲撃しさえすれば、要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができ、兵力の損耗も少なくてすんだはずだという批判である。

その反対論としては、要塞の攻略に必要なのは、どの地点を占領するかではなく、どの地点で効率よく敵軍を消耗させることができるかにあるから、203高地を主攻しなかったことをもって第3軍をを批判することはできないという考え方である。実際、203高地を占領した後、旅順要塞が陥落するまで約1か月を要しているという。仮に、当初から203高地の攻略を第1目標に置いたとしても、被害の拡大は避けられれず、反撃射撃や予備兵力による逆襲を考慮すべきであるという。

非難の情報源は1909年に陸大の谷教官が書いた「谷戦史」が、太平洋戦争後の昭和40年代に「機密日露戦史」という題にて出版されたものといわれている。司馬遼太郎はこの本を参考にして『坂の上の雲』の旅順攻囲戦を描いた。しかし、この「機密日露戦史」は、実際の当事者である3軍参謀部(伊地知幸介、大庭二郎、白井二郎)による記録がなく、一方的見地に偏った資料であり、誤りも多いという人もいるようだ。

事実としては、近代の日本は攻城戦の経験が少かったようだ。そして、当時、乃木希典大将は、何年も現役を離れていて、戦争の直前に復職したばかりだった。又、参謀長の伊地知幸介は、軍司令を補佐することも、若い参謀たちを掌握することもできなかったようだ。実質的には、参謀副長の大庭二郎がその任務に当たったという。

先日、日本から年老いた母が訪問した際に『坂の上の雲』の話をした。母の家系は代々陸軍の士官が多いが、大庭二郎は私の高祖伯叔父にあたるという。その関係を理解するのに時間がかかったがつまりは遠戚のようだ。大庭は日露戦争の際に、当事者として『大庭二郎中佐日記』という記録を残しているようである。歴史の真実とは見る者によって異なるようであるが、日本に帰る際にはその文献を探して読んでみたいと思う。

【参考資料】
坂の上の雲 (旅順総攻撃、203高地、日本海海戦)
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8_%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%B9%83%E6%9C%A8%E3%81%AE%E8%A9%95%E4%BE%A1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%9B%B2
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120105/1325764507
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E4%BA%8C%E9%83%8E

2013年11月3日日曜日

帰国子女の親として


帰国子女とは、親の赴任等に伴い、海外生活を幼少期に経験した子供達である。訪問した国における学校体験にもよるが、早い時期から外国語や異文化を経験しているので、一般的には『外国語』が優れていたり、『国際感覚』を擁しているといわれている。

一方で日本で教育を受けていない時期があるので、日本語の読み書きに問題があったり、日本の常識を兼ね備えていないことがあるのも事実であろう。

帰国子女の親の立場としては、この利点を伸ばしてあげることと、弱点を克服する為に子供に何ができるか悩むのが共通の思いではなかろうか。海外体験は素晴らしい機会になるかもしれないし、場合によっては日本語も外国語も中途半端になる可能性もあり、親にとっては気が気ではない。また、帰国時にはいじめの対象にならないか等、学業以外でも心配することもある。

私の場合は、子供が帰国子女であり、この問題は他人ごとではすませられない。また私自身は帰国子女ではないが10代の時に留学経験があり、海外で働きノンネーティブとしての英語の壁を常に感じていることもあり、大変重要なテーマである。

かつて、高校の一時期、アメリカの大学を目指した時期があり、SATを受験したことがあった。そのテストは難しく、箸にも棒にもかからずがっくりした思い出がある。受験会場の国際基督教大学(ICU)において、試験後、同世代の帰国子女達が『It was not so bad』と流暢な英語で話しているのを聞いて2重にショックであった。やはり、1年間留学しただけでは、何年も海外に住んでいた帰国子女には英語の面で太刀打ちはできないと強く感じた。帰国子女が羨ましいと思ったほどである。

しかし、帰国子女といってもその海外体験により、外国語の習得度に大きな個人差がある。また、帰国後の教育方法によって、その後の外国語の発展に大きな影響を及ぼす。かつては、小・中学校で帰国した子女達にとって英語の力を伸ばすような塾や学校は少なかった。しかし、現在は、帰国子女用の英語専門塾や特別英語クラスを保有する中・高も現れており、そのレベルは高まっている。

実際に子供が小学校高学年の時に、帰国子女用の塾に通わせたが、その集中度はすざまじかった。その塾は帰国子女用の中・高受験を目的としているが、週に2~3回の授業で撤退的に英語の読み書きを習得させる。現在、子供が再び海外の高校で対応できているのは、かつての米国の初等教育の経験とともに、その塾で鍛えられたことが大きいと思っている。

現在、日本においてはTOEIC900点や、TOEFLが600点があれば、英語が高いレベルに達しているとされている。このレベルに達するのは大変な努力が必要なことは重々承知している。しかし、これらの点数(特にTOEFL)はあくまで米国の高等教育を受ける為の目安であり、残念ながら、これらの点数をとってもネーティブとの英語力の差は歴然である。

個人差はあるが、日本で教育を受けた人に比べ、帰国子女はこれらのレベルに早く達しやすい。しかし、それ以上の知識や専門性は、本を読んだり、勉強をして向上するしかない。また、母国語が深い思考を行うレベルに達していないと、次の段階で苦労することになり、母国語の教育は極めて大切である。 

親に出来ることは、与えられた環境にて、子供にベストな機会を与えてあげることであろうか。そして、子供の努力に対して常に注目し、愛情を注ぐことが最も大切であると思う。

子供は親の英語の発音がおかしいことを小さい頃から認識しているし、語彙もネーティブと比べて少ないことも、言い回しも豊富ではないことにも気がついている。それでも、英語を使って働いてる親の姿を見て、自らの将来の為に役立ててもらえればと思っている。帰国子女は日本の宝である。親のレベルを遥かに超えて、世界に大きく羽ばたいて欲しい。

2013年11月2日土曜日

ベルベル人による戦いとは

ベルベル人という言葉を初めて聞いたのは高校生の時であろうか。イベリア半島においては、1492年のグラナダ陥落に至るまで、イスラム教徒による支配が何世紀にも及んだが、その征服した主な民族がベルベル人だと教わった記憶がある。

当時、『漫画で覚える世界史』と呼ばれる本(漫画)があり、ベルベル人がイベリア半島に攻め入っているシーンを覚えている。記憶に間違えなければ、そのベルベル人は褐色であり、サブサハラのアフリカ人の特徴をもって描かれていた。その認識が誤りであることを知ったのは、25年以上も経った最近の事である。一般化することは難しいがベルベル人はコーカソイド系であり、サブサハラのアフリカ人とはその特徴が大きく異なる。

一体ベルベル人とはどのような民族なのか。その歴史は古く、かつては紀元前から北アフリカに存在していた。現在、ベルベル人はモロッコからエジプト、そして、マリやニジェールに分布しており、今日に至るまでその文化や言葉を継承している。今日、北アフリカにおいては、2500万から3500万人がその言語を話すといわれており、民族的にはそれよりもはるかに多い人口が存在するようだ。

しかし、その歴史は必ずしも日に当たるものばかりではなかったようだ。ベルベル人は歴史的にローマ帝国、ヴァンダル王国、東ローマ帝国、アラブ、フランス等の為政者によって征服され、7世紀以降は、イスラム教化が進み、その間、地域によっては他民族との混血が進んだ。11世紀以降には主権を取り戻した時期もあったが、時には為政者により傭兵として利用され、そしてその文化や言語は社会の周辺に位置づけられていった。

一方で、その文化や言語を再認識する動きが進んでいる。アルジェリアにおいては2002年4月より、モロッコにおいては2011年7月より、ベルベル語(Amazigh語)が公用語として認められている。しかし、先週のJeune Afriqueの記事によると、モロッコにおいては、15%の生徒しかベルベル語の教育を享受できないという現状であるという。更に、子供の出生時にベルベル人の固有の名前が役所で認められず、親が裁判を起こす例も見られるようである。

そのアイデンティティーを追い求める運動は南部でも行われているという。アルジェリアの南部の国境付近やマリ、ニジェールにおいて、ベルベル人は、各国においてその地位を確立されていない。MNLA(アザワド解放民族運動)に代表されるように、ベルベル人(トゥアレグ族)が武器を手にして戦っているのは、自らの地位の確立と平和の獲得が目的であるという。各国の歴史や背景が違うため、形態こそ異なるものの、ベルベル人の戦いは続いている。

私の友人にはベルベル系のアルジェリア人と、ベルベル系とアラブ系のハーフのモロッコ人がいる。その二人、特にアルジェリア人の友人はベルベル人であることに強い誇りを感じているようだ。そのアルジェリア人はベルベル語が母国語であり、アラビア語は小学校から覚えたという。二人曰く、ベルベル人とアラビア人は文化も人種的にも全く異なり、アルジェリアとモロッコにおいては、アラブ系とベルベル系を見分けることも可能であるという。民族の融合が進んだ日本では考えられないが、縄文系と弥生系を見分けることができるような感覚なのであろうか。

現在、北アフリカにおいては、2011年のアラブの春以降、政治的混乱に伴う不安定な状況が続いている。有史以前から生き抜いてきたベルベル人は、これらの混乱も超えて、自らのアイデンティティー求めながら生きていくのであろうか。

【参考資料】
http://www.jeuneafrique.com/Articles/Dossier/JA2753p024.xml0/niger-mali-islam-maghrebafrique-du-nord-l-internationale-berbere.html
http://en.wikipedia.org/wiki/National_Movement_for_the_Liberation_of_Azawad
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E4%BA%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_medieval_Tunisia