2013年4月30日火曜日

多神教と一神教の違いとは



農耕の神サトゥルヌスの神殿
(フォロ・ロマーノ)
塩野七生著の『ローマは一日にして成らず』によると、ローマ帝国における宗教は多神教であり、ローマを強大にした要因は、ローマ人にとっての宗教とは精神的な支えに過ぎず、他の宗教に対しても排他的ではない性格にあったという。ローマの神とはあくまで“守り神”の役割を担っていたようだ。

昨年の夏にローマに訪問した際にも、先日ドゥッガに訪問した際にも、ローマ帝国時代に建てられた神殿の数の多さに驚いた。ローマの宗教とは、他の民族の神を排除しないどころか融合させ、自らの神として取り入れていったようだ。

ローマ市内にあるフォロ・ロマーノに訪問した際には、農耕の神の『サトゥルヌス(上記写真)』や火の神の『ヴェスタ』、女神の『コンコルディア』、そして『アントニヌス帝』やその妻の『ファウスティーナ』の神殿が祀られてあった。ローマ帝国は数々の守り神を創ったのみならず、時の為政者までも神格化して祀っていたようである。
海の神ネプチューン神殿
(ドゥッガ)

ご参考までに、ローマの神話はギリシャ神話の影響を多大に受けており、ギリシャの神をローマ神話にも取り込んでいる。例えば『ユピテル』は元々ギリシ
ャの神の王である『ゼウス』であるし、その妻の『ユノ』はギリシャ神話の『ヘラ』である。海の神の『ネプチューン』は『ポセイドン』からきている。

先日、ドゥッガを訪問した際には、ローマ神話の主神である『ユピテル』や、学業・商業の神である『ミネルバ』や、海の神『ネプチューン』、太陽の神である『ソル』、死者の神である『プルトン』、その他、カルタゴの主神である『バール・ハモン』やその妻である『タニト』までも祀られていた。

バールハモン・サトゥルヌス神殿
(ドゥッガ)
カルタゴの『バール・ハモン』はローマ神話の農耕神である『サトゥルヌス』と一体化され、『タニト』は、ユピテルの妻である『ユノー』に一体化されていったようである。支配した民族の神を排除せず、ローマの神と一体化することによって、融合化を図っていった意図が垣間見れる。


ところが、ローマにおいてこの寛容な多神教の風土が、徐々に一神教の文化に傾いていったようだ。313年のコンスタンティヌス皇帝が勅令したミラノ勅令によって、キリスト教は他の全ての宗教と共に公認される。更に、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。ローマ帝国においては上流階層による古典(多神教)信仰はその後もしばらく生き残っていったようであるが、その後、ヨーロッパ全体がキリスト教に染まっていったのは周知の事実である。

北アフリカにおいては、3世紀末からキリスト教が先住民を取り込むようになっていたという。スース等の各地域においてキリスト教の古代教会のカタコンベ(地下墓地)が発掘されており、ドゥッガにおいてもビクトリアの教会という4世紀後半から5世紀に建てられた教会の遺跡を見ることができる。  
シディ・ウクバ・モスク(ケロアン)

その後、7世紀より、アラブによる征服と支配下で、イスラム化が進み、キリスト教徒の数は激減した。ケロアンにはマグレブの最初のイスラム寺院、グランド・モスクが建設され、聖都として重要な役割を担った。
 
当時のチュニジアにおける政治、軍事並びに文化の中心地はケロアンであり、スンナ派四代法学派の一つであるマーリク派の法学派が発展し、多くの留学生が近隣諸国から集まったという。現在でもケロアンはイスラム世界ではメッカ、メディナ、エルサレムに次いで4番目に重要な都市である。
 

シディ・ウクバ・モスク(ケロアン)
先日、そのグランドモスクである『シディ・ウクバ・モスク』を見学したが、その壮大さには圧倒させられた。モスクの中に入ると、7世紀以降のチュニジアが急速にイスラム化していった理由がわかるほど、人々を惹きつける圧倒的な力強さを感じた。

現在、チュニジアの人口の98%がイスラム教徒であると言われている。サウジアラビア等に比べると戒律が厳しくないといわれているチュニジアでさえもイスラム教は社会や人々の生活の中に深く根ざしている。私が知るだけでも、その宗教観は日本人のそれとは全く異なる。
 

一体、一神教と多神教の違いは何なのか。上述した『ローマは一日にして成らず』によると、『一神教と多神教のちがいは、信じる神の数にあるのではなく、他の神を認めるか認めないか』にあるという。そして、『他者の神を認めるということは、他者の存在を認めるという』ことであるという。
過去の歴史を振り返ると、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の一神教による宗教の紛争は絶えない。中世の『十字軍』から、近代の『中東戦争』の紛争は多くの人が知るところである。最近は『湾岸戦争』や、『9.11』、そして、その後のイラク、アフガニスタンの紛争等も、宗教紛争の側面を持っており、その例は枚挙にいとまがない。

イスラム教も、ユダヤ教も、キリスト教も、元を正せば同じ神を崇拝している。どちらも自分たちが正統だといい、相手を異端と決め付けており、これらの対立が起こる事自体が非常に残念でならない。 ローマ時代にはその寛容的な思想により、宗教戦争は一切起きていない。かつてのように、他者の神、更には、他者の存在を認め、宗教対立がない世界に戻ることができないのであろうか。

参考資料】
ローマは一日にして成らず(上)、塩野七生著
チュニジアを知るための60章
DOUGGA, Mustapha Khanoussi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
http://en.wikipedia.org/wiki/Baal-hamon

2013年4月26日金曜日

チュニジアにおける入籍儀式

40代は人生の岐路と言われているが、その生き方は人によって様々である。それは、仕事のみならず、結婚や夫婦の関係においても言えるであろう。 

夫婦によっても異なるかもしれないが、一般的には、30代から40代の夫婦の関係は、20代の新婚時の男女の関係とは異なり、配偶者が人生におけるかけがえのないパートナーであることを認識する頃ではなかろうか。子供がいる家庭においては2者間の関係のみならず、3者間の関係という家族の関係を構築している時期でもある。

しかし、最近は、平均寿命が伸びてきていることもあり、人によっては30代後半や、40歳を超えても新たに配偶者と出会ったり、新たに家庭を築いたりすることも少なくない。これは日本のみならず、世界中で起こっている傾向であると言えよう。

その例を象徴する出来事として、本日、欧米人である友人とチュニジア人の女性の入籍儀式に出席した。友人は私と同世代の40代前半で、女性は20代である。いわゆる“年の差結婚”であるが、二人の間にさほど違和感はない。その儀式はチュニス市内にある『公民館(
Bureau de lEtat Civil a la Municipalite)』で行われた。伝統的なモザイク画に包まれたアラブ風の美しい建物である。儀式はイスラム教の伝統的な方式に従い、家族と数人の友人に囲まれて行われた。ちなみに、この儀式はチュニジアの法律に基づいた公式なセレモニーである。


ご参考までに、チュニジアの法律においては非イスラム教徒の男性”はイスラム教徒の女性”と結婚することが出来ない。チュニジアの女性と入籍する為には、男性がイスラム教に改宗する必要があり、私の友人も例外に漏れず儀式の前に改宗している。一方で“イスラム教徒の男性”は“非イスラム教徒の女性”と結婚する事が可能である。男女の間で同じ権利が与えられていないのが実状である。

入籍の儀式では、
ムフティーと呼ばれるイスラム法官を仲介者として、皆に見守られ中、テーブルに向かって、左側に新郎とその証人(友人の男性)、右側に新婦とその証人(父親)が座り、儀式が行われた。


まず、ムフティーはコーランのファティハ(開端)と呼ばれる最初のスーラ(章)を暗唱した。仏教のお経に聞こえなくもないファティハであるが、参列した友人の一人のモロッコ人によると、唯一の神であるアラーに対して我々が正しい道に導かれるべくお祈りをしているという。暗唱後、ムフティーが、新郎と新婦に向かって問いかけた。アラビア語なので理解ができなかったが、おそらく『イスラム教の教えに従い夫婦となることを誓うか』といった内容であったと思われる。新郎と新婦は頷いて確認の返事をしていた。そして、白い箱が開封され、指輪が出され、新郎と新婦の間で指輪の交換が行われた。イスラム教の儀式なので我々にとっては何が起こるか分からず、多少サプライズであったが、これで二人は正式に夫婦となった。皆に祝福されて満面の笑顔の新郎と、ほっとしたようなブーケを持った新婦の顔が印象的であった。

儀式の後は、チュニジアの伝統的なお菓子や飲み物で祝福を行った。当然ながらアルコールはご法度である。家族や友人同士で談笑をしたり、写真を撮ったりして新たな夫婦を門出をお祝いした。

実はチュニジアでは外国人がイスラム教徒の女性と結婚するのは容易ではない。結婚するまでに超えなければいけない幾つかの障害が伴う。宗教(改宗)、家族や親族の同意、数々の法的手続きや書類提出の問題である。私はこのカップルが、様々な問題を時間をかけて解決し、最終的に結婚まで辿り着けたことを知っていた。また、新婦とも何回も会っていたので、入籍の儀式が無事に終わって本当に嬉しかった。

以前、私は、友人が結婚を決意した際に、彼と結婚について話し合ったことがある。友人は彼女と出会ってから早い時期に結婚を決めたので、私は同世代の友人として、もう少し様子を見て決断をした方が良いのではと促した。少し僭越だったかもしれないが、異なる宗教間の結婚であり、早急な感情で結婚を決めて、後悔する事がないか心配だったからである。

しかし彼の態度ははっきりしていた。理由は結婚しないで後悔するよりも、今の自分の気持ちを大切にしたいとのことであった。極端に言えば、人生とは何が起こるか分からず、明日の命もどうなるか判らない中で、このような素晴らしい機会を失いたくはないという。私はこの言葉に強く共感した。

四十路とは人生の折り返し地点である。私の場合は、20代、30代において会社で多忙な時間を過ごした人生であったが、40代になり、人生に対する考え方が変わった。残りの人生を考えた場合に、どうしたら後悔しないか強く意識するようになった。いわゆる残りのキャリアや人生、そして死を意識した『逆算の考え方』である。一般的には40になった時点で働ける年数は20年程度しか残されていない。我儘な生き方であるかもしれないが、死ぬまでに異なる環境で働き、もっと知らない世界を見たいと思った。アフリカに移住したのも後悔しない人生を歩む為である。但し、家族に対する養育と子供の教育の義務は伴うことを前提としている。

私の友人も40代というステージにおいて、自分の残りの人生を考える上で大きな決断を行ったという事であろう。今からであれば家族を増やすこともできるし、まだまだ夫婦で多くの素晴らしい時間を過ごすことができる。是非、二人には異なる文化や習慣、宗教を越えて、今後の人生において幸せになって欲しいと切に願っている。


【参考資料】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%A9_(%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%AB%AF_(%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3
)
http://tunisia.usembassy.gov/marriage-tunisia.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0E%83%95%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC

2013年4月20日土曜日

習近平政権によるアフリカ外交

3月14日、中国の全国人民代表大会(全人代)で、習近平は国家主席に選出された。世界中が習近平の外交方針に対して関心を集める中、初の外遊先としてロシアと共にアフリカを選び、アフリカを重視する姿勢を示したのは注目に値する。

習近平のアフリカ歴訪は同月の24日にタンザニアから始まり、南アフリカのダーバンで開催されたBRICSサミットへの出席を経て、30日に最後の訪問地であるコンゴ共和国まで続いた。

タンザニアのダルエスサーラムで演説した習近平は『中国はこれまで通り、アフリカが必要な援助を政治的な要求なしで継続し、中国とアフリカは、対等な関係として友好を深めていく』と発言したという。習近平政権は、前胡錦濤政権のアフリカ支援を継続する方針を示したと共に、欧米による民主化等の政治的な要求を引き換えにする方針とは異なることを強調したようである。

さらに南アフリカで開催されたBRICSサミットにて、習近平政権は他のBICS諸国のブラジル、ロシア、インド、南アフリカと共に『BRICS開発銀行』を発足させることを発表した。同開発銀行を通して、アフリカ諸国のインフラ整備やエネルギー開発等を支援していくようだ。

さて、習近平体制のアフリカ外交であるが、基本的には胡錦濤政権の方針を継続する姿勢を示したようであるが、今後、どのように変化する可能性があるのだろうか。考察してみたい。



中国のアフリカに対する直接投資
まず中国のアフリカに対する資源外交であるが、引き続きアフリカにおいて資源開発を加速させるのは間違いないであろう。中国のアフリカに対する直接投資は更に増えていくと思われる。(直接投資のトレンドにつき右記の図を参照。)

中国は13億人の民を背景とした経済成長を維持する為には資源の確保が欠かせない。中国にとっては効率的に資源を確保する事が最も国益に沿っており、習近平が外遊中に『必要な援助を政治的な要求なしで行う』と発言した外交姿勢にはそのような背景がある為であろう。極端に言えば、中国がアフリカに対して行っていることは『敵を倒すには油断させ、敵から奪うのにはまず与えよ』という孫子の兵法と同じ選択だと言う者もいるようだ。

また、『BRICS開発銀行』を設立させたのも、インフラ等の中国の製品を輸出する目的と共に、エネルギー開発、鉱山開発を容易にする目的もあると思われる。


GDP対比中国の対アフリカの輸出入トレンド
(青が輸出、赤が輸入)
現在、中国は資源豊かなアフリカから石油や鉱物資源など多くの原材料を輸入している。2012年のアフリカから中国への輸入総額は1130億ドルで、この10年で20倍に増加したという。(輸入の過去のトレンドにつき左記の図を参照。)未だに中国の一人当たりの電力の使用量は日本の一人当たりの約半分程度であり、更なる経済成長によって資源の消費量が増えるのは間違いない。


次に注目したいのは、中国がアフリカの市場を重視している点である。今回、訪問団には多くの中国企業も同行し、インフラ整備などの大型商談がまとまったといわれている。以前、『アフリカ大陸のトップ企業』というテーマで紹介したが、アフリカ大陸全体のGDP(2011年)は1.8兆ドルであり、仮にアフリカが一つの国であると世界で9番目の経済規模になる。これはロシアやインドを上回る規模である。上記の中国の輸出のトレンドでも示されている通り、アフリカは市場としての魅力も増しているということであろう。

更に注目したいのは、習近平外交がアフリカ大陸を政治的に重視している点である。今回の訪問にあたり、中国のメディアは、アフリカ諸国との良好な協調関係を全面的に強調した報道で埋め尽くされたという。国連の安保理の常任理事国である中国は、国連に加盟する50カ国以上のアフリカ諸国の影響力を熟知しており、今回の訪問で支持を集めて国連における主導権強化につなげ、欧米主導の世界秩序に対抗していく狙いもあるとみられる。

過去に中国がこのアフリカ諸国の影響力を駆使した例がある。2005年に国連の安保理改革案が議論された際には、中国はアフリカ連合(AU)加盟国に対して日本の常任理事国を阻止するように働きかけた。安保理の改革は日本とドイツ、ブラジル、インドの他にアフリカの2か国を常任理事国に加えるというものであったが、中国に支援されていたジンバブエのムカベ大統領等の反対もあってAUによって拒否された。2005年にAUがこの改革案を受け入れていたら、日本はおそらく安保理の常任理事国になっていただろう。

日本がアフリカ票の取り纏めに失敗した背景には、長年アフリカに多額のODAを供与していた為、油断があった為であろう。結局、中国の狡猾な外交によって足元をすくわれたということである。ここは中国を責めるよりも、日本の不甲斐なさを反省すべきではなかろうか。この事例でも判る通り、中国はアフリカの政治的なレバレッジ方法を理解しており、その傾向は習近平政権において更に強まるであろう。

最後に強調したいのは習近平政権の国内における基盤の脆弱さである。習近平は中国共産党において第5代目の国家主席である。初代の毛沢東と2代目の鄧小平は共産革命を成功させた軍人で絶対的なカリスマがあった。3代目の江沢民と4代目の胡錦濤は鄧小平の指名を受けており、権力の正統性があり、党内でも存在を脅かす存在はいなかった。しかし、習近平は江沢民派と胡錦濤派の権力闘争間で生まれた産物で、胡錦濤が妥協したダークホース的な存在であり、党内の求心力が弱いと言われている。

党内で基盤の弱い習近平は軍に頼っているといわれている。妻の彭麗媛夫人は人気歌手でありながらも、軍の現役の少将でもある。今後、軍の膨張する可能性は大いにあるだろう。国内問題が山積している中で、国内問題を外交に転じて、日本や南シナ海の国々や欧米の秩序に対して対峙してくる可能性も充分ある。

国際社会において議論が行われたり、世論が構築される際に、国連で最大の加盟国を持つアフリカとの関係が一つの鍵になるかもしれない。日本も中国のように狡猾にアフリカとの外交を進めないと、2005年に安保理の改革案で失敗したように、更なる国益を失うかもしれない。母国との関係において台頭する隣国の状況をアフリカから心配して見ている。

追記:このサイトはハッキングされたようだ。何故か上記の『中国の対アフリカ直接投資のグラフ』が私の友人の結婚式の写真にすり替えられたいた。恐ろしい出来事である。(2013年7月4日)

【参考資料】
『2012年の論点100』文藝春秋
『日本人のためのアフリカ入門』、白戸圭一
『アフリカを食い荒らす中国』、河出書房新社
http://mainichi.jp/select/news/20130325k0000m030078000c.html
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2013/03/post-2884.php
http://www.epochtimes.jp/jp/2013/02/html/d41408.html
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_electricity_consumption
http://mainichi.jp/select/news/20130325k0000m030078000c.html
http://newscastmedia.com/blog/2013/03/28/chinas-marriage-with-africa-is-a-lifetime-relationship/
http://en.wikipedia.org/wiki/Africa%E2%80%93China_economic_relations
http://www.oecd.org/investment/investmentfordevelopment/41792683.pdf

2013年4月14日日曜日

アフリカがサッチャーから学ぶこと

先週の月曜日(4月8日)、英国の『鉄の女』と呼ばれた元首相のマーガレット・サッチャーが脳卒中により他界した。享年87歳であった。

サッチャー元首相の功績については様々な議論が行われていると思われるが、私は、英国の経済を立て直した民営化や民活導入の手法に対して称賛を贈りたい。ここで、その功績について振り返りたいと思う。

英国は以前は『ゆりかごから墓場まで』と言われた手厚い福祉政策で有名な国であった。しかし、70年代に入ると企業の競争力が低下し、インフレに悩まされるようになる。低迷から脱出できない状況は『英国病』ともいわれた。

79年に首相に就任したサッチャー氏は、50社にも及ぶ国営企業を数回の段階に分けて民営化した。その中には、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)、ケーブル・アンド・ワイヤレス(C&W)、ブリティッシュ・テレコム(BT)、ブリティッシュ・エアウェイズ(BA)が含まれている。

その基本的な思想は、国営企業は民間企業と競合すべきではないというものであった。また、当時赤字に苦しんでいた財政を正常化する為には民営化による株式売却と、民営化による税収の増大が欠かせなかった。1981年当時、英国の公共部門全体がGDPに占める割合は3割にも及んでいたという。更に、サッチャーは規制緩和や金融システムの改革を強いリーダーシップで断行していった。長期的な観点に立てば、サッチャーの改革はイギリスの経済を活性化し、企業を強化したのは疑いもない事実であろう。

ちなみに、私は94年、2004年、そして昨年の2012年にロンドンに訪問した事があるが、94年に受けた『退屈な街ロンドン』の印象が、毎回訪問する度に変貌し、洗練していったのには強い感動を覚えている。正直、94年のパブル経済を経た東京からロンドンに訪問した際には、ロンドンの街が地味に感じた。その後、町の雰囲気や、人々のファッションが激変したという印象を持っている。これは、80年代にサッチャーが金融システムを改革したことによって、後ににシティが活性し、世界中の投資家がロンドンに集まり、国際都市に変貌したことに他ならない。当初はロンドンでは外食しても美味しい店がなかったが、昨年、訪問した際は移民が増えて、美味しいレストランやチェーン店が多くなっていたのには感激した。

また、上述した企業が復活し、海外展開を行ったのは多くの人が知るところである。日本においては、電電公社の民営化を行った際に規制緩和の一環として発足した国際電話会社IDCに対してC&Wが出資している。また、BTがボーダフォン(現ソフトバンク)のブランドで日本の携帯電話事業を行っていたのは記憶に新しい。

更に、サッチャー政権はイギリスとフランスを海底トンネルで結ぶ『ユーロトンネル』を民間資金を活用する『プロジェクトファイナンス』にて推進した。その事業費は総額で60億英ポンド(出資金10億ポンド、借入金50億ポンド)に昇ったという。当時のフランスのカウンターパートはミッテラン大統領であった。更に、実際に導入されたのはメージャー政権になってからであるが、サッチャー政権の『小さな政府』の意向を受けて、PFI(Project Finance Inititive)という方式が導入された。PFIとは、公共施設が必要な場合に、公共機関が直接施設を整備せずに、民間資金を利用して民間に施設整備と公共サービスの提供をゆだねる手法である。

これらのイギリスの民営化や民間資金導入の方式は30年近くたった現在でも、世界中で模倣されている。日本では80年代に中曽根政権にて日本専売公社(現JT)、日本国有鉄道(現JR)、および日本電信電話公社(現NTT)が民営化された。中曽根元首相のリーダーシップのもとで、土光敏夫、瀬島龍三という昭和を代表するブレーンと共に、当時労働組合が強かった国営企業を民営化したのは称賛に値する出来事であろう。しかし、その後の日本道路公団や郵政改革は道半ばで止まってしまったという印象を受ける。日本国内ではなかなか進まないが、PFIやプロジェクトファイナンスの導入のコンセプトも議論されて久しい。

また、アフリカのおいては、今日ほど、サッチャーが断行した民間セクターの活性化や、民間資金導入が必要な時期はないのではなかろうか。

現在、サブサハラ諸国ではインフラの整備が急務であり、特に電力セクターが深刻な問題である。サブサハラの48か国(人口約8億人)の発電能力はスペイン(人口45百万人)と同等に過ぎない。又、電力の使用量は1人当たり124KWhで、100Wの電球を1日3時間しか利用できない計算になる。道路も問題である。アフリカは広大な土地を有する大陸であるが、人口の1/3のみが1年間利用できる舗装道路の2Km以内に住んでいるという。対照的に他の途上国の平均は人口の2/3が舗装道路の2Km以内に住んでおり、いかにアフリカの道路の整備が遅れているかがわかる。

『Africa Infrastructure Country Diagnostic』というレポートによると、サブサハラ諸国においては、必要なインフラ(2000年代の中国のインフラ水準)を構築する為には継続的に年間930億ドルの支出が必要となると言われている。これはサブサハラ諸国のGDPの15%に値する金額である。しかし、現在インフラに支出されている金額は450億ドルにすぎない。毎年、約480億ドルの資金ギャップが生じている。

この資金ギャップを埋めるのには、国の財政支出や2か国間等の援助には限界がある。解決方法は民間セクターの資金をもっと導入するしかない。今後アフリカが益々の経済成長を行うためには、プロジェクトファイナンスや、更にPFIやPPP(官民パートナーシップ)等のスキームを利用して、民間のノウハウや資金の導入をすることが求められている。

マーガレット・サッチャーという冷戦時代を代表する偉大な政治家が世から去っていった。アフリカは偉大な先人たちが残していったノウハウを活用し、より良い大陸となるべく更なる知恵を絞らなければいけないのであろう。

日本ではTICADVの開催を前に、アフリカに関する報道が増えてきていると聞いている。しかし、アフリカ側から見ると、日本の対アフリカのODAの援助資金は増大しているものの、日本の企業や投資家のプレゼンスはあまり目立っていない。アフリカは成長率が高い魅力的な市場である。是非、日本の企業にはアフリカに対する更なる関与をお願いしたい。

2013年4月13日土曜日

ローマから”チュニジア”が見える

ユリウス・カエサル
(BC100~BC44)
第3次ポエニ戦争(BC149~BC146)時に徹底的に破壊され、その後100年近く放置がされていた“カルタゴ”の運命はローマ帝国の皇帝『ユリウス・カエサル』という天才と、その天才の後を受け継いだ『アウグストゥス』によって決定したといっても過言ではないだろう。

そのカルタゴの再建について歴史を振り返ってみたい。

カルタゴの再建はBC44に『ユリウス・カエサル』によって決定される。塩野七生が著した『ローマから日本が見える』によると、カエサルの植民都市(コローニア)の建設に対する考え方はある思想に基づいていたようだ。

カエサルが現れる前のローマの定義とは、かつての都市国家ローマの延長にすぎず、視野を広げてもイタリアの半島を超えることはなかった。あくまでイタリア以外の領土は支配の対象としか見ていなかったという。

しかし、カエサルはその概念を根底から覆した。カエサルにとっては“国境”という概念はなく、彼はローマの支配下の地はすべてローマ帝国の一部とみなしたという。カエサルは、ガリアや北イタリアにとどまらず、スペインの原住民の有力者にも『ローマ市民権』を与え、そして、8万人ものローマ市民を属州(欧州)に送り込み、『植民都市(コローニア)』を建設することによって、ローマへの同化、つまり、運命共同体の政策をとったという。ローマは徐々に市民権を拡大し、最終的には解放奴隷にも与えたという。

カエサルはまもなくブルータスに暗殺された為、実際にはカルタゴの再建設はカエサルの養子であるアウグストゥスによって実施される。紀元前29年にアウグストゥスはローマの都市計画に沿った植民地を、ポエニ戦争で崩壊したカルタゴの都市の上に建設する。そして、カエサルの『国境なきローマ』の思想はアウグストゥスに継承され、『パクス・ロマーナ(ローマの平和)』の基盤を築いていった。

アドリアン時代(AD117~138)の
ローマ帝国の街道
まず、ローマ帝国の支配下に入った属州は道路や港の整備が進んだ。その主な理由はローマ帝国の同化政策をとる一方で、ローマ軍隊の俊敏な移動を可能にする為であったという。実際に現在のチュニジアの域内では、カルタゴ・スース間、カルタゴ・ケルビア間(ボン岬半島)、カルタゴ・ドウッガ近郊間、カルタゴ・スキッダ(東アルジェリア)の道がローマ時代に建設された。『すべての道はローマに繫がる』といわれた道路網の一部である。

2世紀になると、大規模なインフラの建設が行われる。ポエニ時代のカルタゴの軍港は、ローマ時代になり輸出港に変貌を遂げる。北アフリカの穀物の生産量は100万トンと言われ、その1/4がこの輸出港からヨーロッパに出荷されたという。その他、オリーブ、豆、ブドウやイチジク等の果物が輸出された。ローマ時代の北アフリカは農業を中心とした豊かな属州であったようだ。アントニヌス帝の公衆浴場をはじめとした水道事業が行われたのもこの頃である。


北アフリカのローマ属州
歴史家のTheodore Mommsenによると、ヌミディア州の東部(カルタゴを除いたほぼ現在のチュニジア)では1/3の人口がローマの退役軍人の子孫であり、ローマと同化政策が推進されたようだ。また、ローマ帝国支配下当初の軍隊はヌミディア州とマウレタニア州(現在の西アルジェリア、北モロッコ)において、28,000人程の規模が駐屯していたが、2世紀頃になると現地の兵士に置き換われていったという。言語は、ラテン語を話す人口が増え、ポエニ語、ベルベル語を話す民族と共に多国籍な社会が構成されたという。また、ローマ人はベルベルの宗教に対して寛容であり、他民族に対しても排他的な措置はとらなかったという。6世紀頃になると、マグレブは完全にローマ化していったようだ。

ローマ劇場
先週末、チュニスから南西100KMにあるドゥッガに訪問した。ドゥッガは北アフリカの最大かつ保存状態が最良のローマ遺跡であり、ローマ帝国の都市全体の雰囲気を感じる事ができる。その姿は言葉では表現できないほど“壮麗(Magnifique)”である。緑が深い周辺の景色も最高であった。昨年の夏にイタリアを10日かけて旅行し、ローマ時代の遺跡を見て回ったが、ドゥッガはローマ帝国の都市そのものであり、まさにチュニジアはローマ帝国の一部であったことも肌で感じた。

標高600mの丘の上の穏やかな気候の中で、この都市を探索しているとかつてのローマ帝国の都市における人々の生活が想像することができる。人々はモザイクで装飾された住宅に住み、多神教の神殿で祈り、共同浴場で体を清め、劇場や闘技場において娯楽を楽しんだに違いない。


フォルム
ドゥッガはアウグストゥス帝(BC27~AD14)の時代にはローマ市民権を保有するものと保有していないものが混在していたが、時と共にローマ化は進んでいったという。マルクス・アウレリウス帝(AD161~AD180)の時代になるとドゥッガはローマ法が付与され、住民はローマの市民権と同様の権利を与えられていったという。

上記の写真はフォルム(集会場)であるが、これはローマ帝国の都市の証である。ここは商業活動、政治・司法の集会、宗教儀式、その他の社会活動が行われる市民生活の上で最も重要なオープン・スペースであった。ここでは喧々諤々様々な議論が行われたのであろう。ローマ帝国においては市民は主権者であり、この市民を主権者とする思想は今日の民主主義における基盤となっている。

かつてのチュニジアには様々な民族の多様性、考え方、宗教を認めながら議論を進めていた土壌が存在した。フォルムの周辺を歩きながら、岐路に立たされているチュニジアの目指す姿が過去の自分達にあるのではないかと思った次第である。

【参考資料】
『ローマから日本が見える』、塩野七生
DUGGA,Mustapha Khanoussi
http://www.ushistory.org/civ/6a.asp
http://www.unrv.com/provinces/africa.php
http://en.wikipedia.org/wiki/Dougga
http://en.wikipedia.org/wiki/Julius_Caesar
http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Empire
http://en.wikipedia.org/wiki/Africa_(Roman_province)

2013年4月7日日曜日

ローマ帝国の水道プロジェクト(アントニヌス、マルガ、ザグアン)

ローマ帝国支配時に建設された『アントニヌスの共同浴場』の遺跡は緑に囲まれたカルタゴの高級住宅街にある。その共同浴場全体の面積は3.5K㎡といわれているので如何に広大な施設であるかがわかる。

現在は円柱や土台の遺跡しか見れないが、共同浴場自体の全長は300Mにも及び、更衣室や、冷浴室(フリギタリウム)、温水プール、垢すり室、高温浴室(カリダリウム)、サウナ、野外プールがあったという。更に、パラエストラと呼ばれる柱で囲まれた中庭の運動場や、運動機器があるジムや、図書館まであったというのは驚きである。まさに東京ドームのラクーア顔負けの壮大な施設であったようだ。

ローマ人にとって風呂は重要な生活様式であったようだ。多くのローマ人が公共浴場において多大な時間を過ごしたという。ローマ人は午前中には仕事を終え、午後の早い時間に公共浴場に向かい、数時間を過ごすというのが習慣であったようだ。


アントニウス浴場の遺跡
(柱の場所がフリギダリウム)
既にこの遺跡には何度も訪問したが、地中海の海を羨望できるロケーションは最高である。ローマ人にとって公共浴場で過ごすことは体を清めることのみならず、そこで楽しむ娯楽的な要素が大きかったようだ。フレスコ画で装飾された壁や床、彫刻で飾られた柱、吹き抜けの天井、溢れ出る熱気システム、透明な水のプールはローマ人を魅了したに違いない。入浴者はコースの全てを堪能しても良いし、好きな浴室だけを選んでもよかったようだ。毎日何千人もの入浴者が訪問していたという。まさに、公共浴場とは、ローマ人にとって社交クラブの場であったようだ。

しかし、これだけの人が集まる浴場を運営するのは容易ではない。水を温めるために、蒸気を生成する為の燃料、薪、石炭が保存されており、大きなボイラー室もあったようだ。地下室で多くの奴隷が働かせられたのは想像がつく。また、この大量の水を確保する為に、水源から大量の水を運ぶインフラを構築する必要があった。

アントニヌスの共同浴場はその碑文によるとAD162年に完成したと言われているが、その水の供給を支えたのは『マルガ貯水場』である。マルガ貯水場の建設はAD130~131年にローマ帝国のアドリアン総督によって実施された水道プロジェクトの一環である。ローマ帝国が滅ばしたカルタゴは既に貯水等の水の技術を保有していたというが、ローマ人はそれを更に発展させたという。マルガ貯水場は最大で98千m3の水を貯水できる容量があったようだ。(詳細は過去のブログ『マルガ貯水場(カルタゴ)』を参照。)


ザグアン水道橋
ローマ帝国はザグアンの5か所の水源を1か所に纏め、132KMに及ぶ『ザグアン水道橋』を建設してマルガ貯水場まで水を運んだという。



先日、『ザグアン水道橋』、並びにその水源に位置するザグアンの『水の神殿(Temple des Eaux)』に訪問した。チュニスからケロアン方面に向かう途中で突然見える水道橋は壮大である。現在、残る部分は20KM程度であるらしいが、現在でも利用されている部分があるというのは驚きである。水道は僅かな高低差を利用して水がカルタゴまで運ばれるように設計されたというが、繊細な技術が要求されたに違いない。



水の神殿のイメージ図
水の神殿は前述したアドリアン総督がAD130にカルタゴへ水が確実に届くようにという思いを込めて、泉を奉ったものであるという。ザグアンの街は小高い山の上にあり、チュニス郊外から車で2時間弱の場所にあるが、まるで軽井沢に来たような感覚である。若干、気候もチュニスよりも涼しい感じがした。


水の神殿は水源である山に面して半円のテラスとなっていた。このテラスはかつては柱廊で囲まれており、ローマ神話の水の神であるネプチューンやギリシャ神話の女神のネレーイスが祀られていたという。説明文ではローマの貯水や水道の技術は紀元前4世紀にギリシャ文化から受け継ぎ、発展したものであるそうだ。


神殿手前の水道管
この水源から水道管を通じて近くの貯水池まで繫がり、その水が、132KMの水道橋を通じて、カルタゴに供給されたということになる。

ローマ人にとって水の供給は国家事項であり、パンの供給や公共の娯楽と同じく最重要項目であったようだ。従い、ローマ帝国にとって域内の住民に水を供給することは国家的な義務と感じていたようである。ローマ人は自国と同じ手法を北アフリカに持ち込み、カルタゴのシステムを発展させた事により、為政者としての地位を獲得したようである。

20世紀近くも前にこれだけのインフラを構築するローマ帝国の国家力に感嘆せざるを得ない。まさに『ローマ帝国恐るべし』である。

【参考資料】
http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Baths_(Bath)
http://www.romanbaths.co.uk/
http://www.roman-empire.net/society/soc-games.html
http://ancientcarthage.wikispaces.com/Water+Supply+in+Roman+Carthage
http://www.jstor.org/discover/10.2307/641659?uid=3739176&uid=2129&uid=2&uid=70&uid=4&sid=21101863888713
http://en.wikipedia.org/wiki/Antonius_Pius
http://www.hydriaproject.net/en/the-water-management-in-the-region-of-tunis-through-history/water-works-ancient-carthage/
カルタゴ、ミニガイド

2013年4月6日土曜日

ヴァンダル族とチュニジア人

チュニジアに住んで1年と4カ月が経つが、チュニジアの多様性には常に驚かされている。太古の時代から多くの民族が侵略を繰り返し、異種文化が混じりあってきた国であるというのを実感している。人々の容姿に限っても背の高さ、髪の色、目の色、顔だち等、千差万別である。一般的なチュニジア人というステレオタイプを構築する事は不可能であろう。

かつて通っていた飲み屋のバーテンダーのお兄さんは、ネグロイド系でサブサハラ諸国から来たのかと思いきや、ほとんどアラビア語しか話せないチュニジア人だった。聞けば、南部のサハラ砂漠の出身であるという。また、先日、会社の医務室に行った際に、事務の女性がフランス人風の顔立ちであり、出身を聞いたところ、トルコ系のチュニジア人であった。曽祖父母の時代にトルコの方からチュニジアにやってきたそうだ。スポーツジムの受付の女性は、背が高く、色が白いがこの人はアルジェリア国境近くのベルベル系であるという。

昨日、ローマ遺跡のドゥッガに訪問した際には、(日本人が珍しいらしく)、出くわしたル・ケフ(Le Kef)から来た小学生の団体に質問攻めにあって困ったが、子供たちの顔立ちや肌の色も十人十色であった。褐色の子供もいたし、白系のヨーロッパ人やアジア人風の顔立ちの子もいた。皆、笑顔が絶えない良い子達ばかりであった。

ヴァンダル王国初代君主ガイセック
実はチュニジア人のルーツをたどるとヨーロッパの北部の血も交じっているようである。それは、かつてヴァンダル族が、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入し、現在のチュニジアを含む北アフリカにヴァンダル王国を建国した為である。

ヴァンダル族の起源については様々な議論があるようであるが、インターネットの情報によると、かつての、アングロサクソン系であるスカンジナビアの起源説よりも、現在のポーランドを中心に発展したプシェヴォルスク文化を起源としている説が強いようである。プシェヴォルスク文化はウクライナから西に進出したスラブ系の文化と、イリュリア系と言われるユーゴスラビア地帯のラウジッツ文化が混合したものであるという。何れにせよ、ヨーロッパの北部を中心とした民族である事は間違いないようである。


ヴァンダル王国の最大勢力図
(真ん中下がチュニジア)
ヴァンダル王国の初代の君主となったガイセックは紀元後429年に8万人を率いてヨーロッパからアフリカに渡り、モロッコやアルジェリアの街、そして、カルタゴを包囲し占領した。、カルタゴ港内にあったローマ帝国の海軍の艦船の大部分が拿捕されたという。442年にローマ帝国はアフリカ属州が征服されたことを公に認め、ヴァンダル王国を承認した。ヴァンダル族の北アフリカの支配は100年近く続いた。その統治の方法は現地人からの搾取によるスタイルであったようだ。ヴァンダル王国時に、建築された新たな建物や文化的施設はほとんど皆無であるという。

ヴァンダル王国の首都はカルタゴであり、チュニジアの北西にあるベジャ(Beja)も重要な都市であった。前述した遠足に来ていた小学生は比較的ベジャに近いル・ケフから来ており、子供達がヨーロッパ人風の顔つきの子が多かったのは、ひょっとしたらヴァンダル族の末裔かもしれない。

ヴァンダル王国は悪政が原因で国力が低下し、かねてよりローマ帝国の復興を企図していた東ローマ(ビザンチン)帝国のユスティニアス帝によって滅ぼされる。ヴァンダル王国と東ローマ帝国の戦闘はスース、ハマメット、ボン岬、アド・デキムムというカルタゴの近郊で行われたという。最後はのチュニスの湖の近辺でも戦いが行われたようだ。私の家のまさに近所である。そして、534年、国王であったゲリメルは降伏し、ヴァンダル王国は滅亡した。

ケリビアの城塞
(この先にはシシリー島がある。)
先日、ボン岬にあるケリビアに訪問したが、その丘の上の城塞の壮大さには感動した。この城塞は東ローマ(ビザンチン)帝国の時代に要塞化されたという。100年もの間、ヴァンダル族に北アフリカの支配を許した反省から、強固な防衛システムを構築しようとした意図が垣間見れる。ボン岬はシシリー島から約120KMに位置しており、ギリシャからも近い。国家の防衛という観点において重要な拠点であったということだろう。

かつて、友人からチュニジアは”玉ねぎ”のような国であると言われたことがある。剥いても、剥いても、何枚も異なる皮(側面)を持っているのという意味である。正直、チュニジアは複雑ずぎて、判らない事ばかりである。まだまだ訪問していない場所も多い。この国の本当の姿はもう少し探索しないと判らないのかもしれない。

【参考資料】
Kelibia et sa forteresse, Neji Djelloul
Histoire de la Tunisie, Habib Boulares

http://looklex.com/e.o/vandals.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Vandalic_War
http://en.wikipedia.org/wiki/Vandals
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Ad_Decimum
地球の歩き方、チュニジア
もういちど読む『山川世界史』

第二次世界大戦とチュニジア


本日、ローマ帝国の遺跡で有名なドゥッガに行く途中に突然、洋風の墓地に出くわした。チュニスから南西方向に約30キロメートル離れたマシカルト(Massicault) という所である。興味深かったので、墓地に入ったところ、第二次世界大戦時に戦死したイギリス連邦(コモンウェルス)の戦士が祀られている墓地であることが判った

墓地の中には何人かの訪問者がおり、その一人のアングロサクソン風の初老の紳士が話かけてきた。聞けば、北アフリカ全体のイギリス連邦の墓地を管理しているオーストラリア人であるという。墓地の中に戦争の背景が説明している小さい建物があるというので見てみた。

北部と南部による戦闘。
(右上、赤字が最終戦闘地)
その説明によると、 北アフリカ戦線は1942年11月から1943年5月までに連合国(イギリス連邦、フランスとアメリカ軍)と同盟国(ドイツとイタリア軍)の間で行われた。当時、フランスがドイツに対して降伏していた背景もあり、チュニジアはドイツの支配下に入っていた。北アフリカ戦線における連合国側の目的は地中海へのアクセスを獲得することによって、南欧における戦争に備える為であったようだ。

連合国は1942年の11月8日にアルジェリアとモロッコに上陸を行い、戦闘を開始する。同盟国は苦戦を強いられたが、シシリー島からチュニジアの北部に軍隊を送り応戦をした。

一方で南部では、同盟軍は、エジプトのエルアラメインにて、連合国の第8軍隊に敗北を喫し、リビアを経由してチュニジアの海岸沿いに後退せざるを得なかったようだ。

1943年の4月には同盟軍はチュニジアの北東地域で、連合軍に包囲され、最後の戦いが行われる。戦闘はMassicalt並びに近郊のMejez el-BabやBeja等で行われた。多くのドイツ人やイタリア人が命を落とし、また捕虜になった。

この墓地には1576人のイギリス連邦の戦士が祀られており、多くは20代と30代で命を落とした人達である。ほとんどがイギリス人であるが、カナダ人、オーストラリア人、ニュージーランド人、南アフリカ人、そしてインド人も含まれているという。その内の130人は名前も判っていない戦士である。

墓地をしばらく歩き、各々の墓を見ながら、戦争により若い戦士とその家族の人生が変わってしまったことを考えると沈痛な気持ちになった。しかし、国民を守る為には軍隊は必要であり、従い、それを守ろうとする軍人や戦死した方には最大の敬意を払わなければいけないと思った。

そのオーストラリア人の紳士とは短い間であったが、様々な話をした。第二次世界大戦では日本は敵国であり、オーストラリアのダーウィンで戦闘が行われた話や、日本にも英連邦(コモンウェルス)の墓地があるという話等である。後で調べたところ、日本における英連邦の墓地は横浜にあり、その祀られている人々は戦争の捕虜として日本に連れてこられ亡くなった方達である。

話をしながら、5年前に他界した祖父の事を思い出した。祖父は職業軍人であり、太平洋戦争当初はフィリピンで連合国と戦い、その後に満州に移った。私が子供の頃は太平洋戦争の遺族会の会長をしており、記憶に間違えがなければ、グアムに遺族を引率していた。もう、30年以上前の話である。それを考えれば、イギリス連邦の遺族(子供の世代)も既に70代、80代であり、チュニジアまで訪問するのは体力的に厳しくなってきていると察する。

最後にそのオーストラリア人が、訪問者として記帳してほしいという。戦争が終わって70年近くが経つものの、かつての敵国の人間にも関わらず記帳を許してくれたのは嬉しかった。国家を守ろうとして亡くなった方々に対して敬意を示すのには敵も味方もないということであろう。

2013年4月1日月曜日

カルタゴの都市『ケルクワン』  

カルタゴの建国は紀元前814年である。そして、このフェニキア人による国家は瞬く間に、東はシドラ湾(リビア)から、西はスペイン海岸、パレアレス諸島、サルデニア島、シチリア島を含む地中海全域を支配下に収めた。その統治スタイルは武力で制圧をすることを好まず、商業と文化、そして外交の力で推し進められたと言われている。自国の民衆に対しても寛大な自治権を与えていたようだ。

その栄華を咲かせたカルタゴであるがあまり資料が残されていない。紀元前146年のカルタゴの滅亡と共にローマ帝国に全て焼き払われた為である。また、このフェニキア人の町は徹底的に破壊され、その上にローマ、ビザンチン帝国による都市に塗り替えられていった。

しかし、わずかであるがその痕跡は残されているようだ。カルタゴの海岸沿いにあるマゴン地区や、サラムボ地区にある遺跡にはポエニ時代の面影を垣間見れることができる。トフェの墓場には『タニト女神』と、『バール・ハモン神』というふたつの最高神が祀られている。更に、ボン岬半島にあるケルクアンもその痕跡が残されている数少ない場所である。

ケルクアンは紀元前255の第1次ポエニ戦争時にローマ帝国に破壊された後、(他の都市とは異なり)、ローマ人によって定住が行われず放置されていた。従い、幸いにもポエニ文化の遺跡が残されており、これが当時のフェニキア人の町や住居を知るうえで大変貴重な情報源となっている。

先週末にそのボン岬のケルクアンに行ってきた。ボン岬は首都のチュニスの南東に地中海に突き出している半島であり、実りある豊かな穀倉地帯と自然に恵まれた美しい景観から、古代ローマ人から『最も美しい半島』と呼ばれていたという。

実際に車で半島を一周をしてみたが(右記の赤線がそのルート)、その美しさに感動したと共に、肥沃な土地であることを再認識した。春の訪れとともに緑が深くなってきており、通り道沿いにあるブドウ(ワイン)畑、オリーブ畑、牧場、そして野菜農場は心が洗われる風景ばかりであった。チュニス郊外を朝9時に出発し、ナブール、ケロアン、ケルクアンを回っても夕方の6時に戻れたので、こんなに近くて素晴らしい場所があるのであれば、もっと早く行けば良かったと思ったほどである。

ケルクアン住宅地域の全体像
ケルクアンはボン岬半島のボン岬とケリビアの中間に位置しており、地中海を隔ててシシリー島から約120KM程度のところにある。もともとベルベル人によって築かれた町であり、Tamezratと呼ばれていた地域であるが、その後、カルタゴの勢力と繁栄によって影響下に置かれたようだ。また、貿易を通じてギリシャ文明との交流もあったことが指摘されている。ネクロポリスから出土された埋葬品からもその関係が判るという。

第1次ポエニ戦争前(BC255)頃に
建設された北の塔
ケルクアンの生活の場は3つの地域に分かれていたようだ。一つは住宅地域、二つ目は公共地域(農園、牧場等)、そして、三つ目はネクロポリス(墓地)である。ネクロポリスはケルクアンの住居から北西1.5KMと少し離れている場所にあるという。

 
訪問したケルクアンの住宅地域は東京ドーム約2個分(約9Ha)の大きさであろうか。現在の住居は土台のみであるが、街路が整理されており、区画整理されている町であることがすぐにわかる。また、この海に面している町は2重の外壁で囲われていたようであり、その外壁の工事並びに北の塔の建設は紀元前255年の第1次ポエニ戦争の前に行われたようだ。 ローマ人の襲撃から防衛する為に準備がされたということであろう。

家の浴槽
現在、住宅地域の1/3程度しか発掘が完了していないようであるが、各家の広さは75㎡~120㎡であり、その住宅地域には300程度の家があったようだ。これらの間取りは、現在のチュニジア人のアパートの規模にそっくりであるが、父親、母親、子供が住むような、家族単位の生活が営まれていたと指摘されている。人口は7人家族と仮定して、2100人前後の住民がいたのでは言われている。またその各家には浴槽があり、日本人と同じく、清潔好きな国民であったようだ。


『タニト』を示した住宅の床
更に、家の床にはカルタゴのトフェにも祀られている『タニト』女神が示されていた。元来、カルタゴを建国したフェニキア人は東方のオリエントから来た民族であり、オリエントで信仰されたアシュタルテ女神と密接な関係があるようである。『タニト』は、ローマ帝国の支配下においてもその信仰は生き延び、現在のチュニジアでも、豪華客船や、タバコの名前をはじめ、町でも至る所で見られる。

ケルクアンは紀元前255年の第1次ポエニ戦争時に破壊され、その後都市自身が消滅している。首都のカルタゴは、第3次ポエニ戦争(BC149~BC146)後、徹底的に破壊され、生き残った5万人のカルタゴ人捕虜は全員奴隷となった。カルタゴに永遠に人も住めず作物をできないように塩がまかれた話は有名である。

その後、ローマ帝国によりカルタゴの首都は再建された。しかしその支配下を経て、現在に至るまで女神『タニト』によるカルタゴの“怨念”が生き残っているということであろうか。やはり女神は怒らせてはいけない。ローマ帝国もその力には及ばなかったようだ。
 
【参考資料】
Kerkouane、 M’hamed Hassine Fantar
Histoire de La Tunisie、Habib Boulares
地球の歩き方 チュニジア
http://en.wikipedia.org/wiki/Tanit

ボン岬にある牧場の風景