2013年6月10日月曜日

サッカー日本代表の進化と国際化

6月4日、日本代表はブラジル・ワールドカップ出場権をかけたアジア最終予選で、オーストラリア代表と1-1で引き分け、本大会出場を決めた。5大会連続出場であるという。

現在、アフリカに在住している為、その試合を見れなかったのが残念であるが、大変喜ばしいニュースである。幼いころから、釜本邦茂や、木村和司が率いる日本代表がW杯に出場できない状況を目のあたりにしていたので、最近の代表は本当に頼もしい。

私は小学生の頃、世田谷区にあるYMCAのサッカークラブに所属していたが、当時、近所の明治大学のグランドの寮にいた木村和司氏からサッカーを教えてもらったことがある。ミニゲームを一緒に行ったりしたが、そのボールテクニックには驚いたものだ。また、兄とともに、木村氏を訪ねて、その寮に行き、同氏からコカコーラをご馳走になったこともある。その学生寮は古びた木造の建物であったが、壁のあらゆるところには女性の水着姿の写真が貼りつけてあった。その頃は木村氏が日本代表になる少し前であったと記憶している。

その木村氏が1985年のメキシコ大会最終予選の韓国戦で見せた『40メートルのフリーキック』は日本サッカー史に伝説に残るシーンである。しかし、その代表チームでさえも一歩のところでW杯には行けなかった。

その後、1993年のアメリカ大会の最終予選にて、ラモスやカズが活躍した代表チームはイラクチームに土壇場で引き分けに持ち込まれ、またもやW杯行きは夢となって消えた。『ドーハの悲劇』である。当時は湾岸戦争の余韻がまだ残っており、イラクチームはサダム・フセインから相当なプッレシャーを受けていたのであろう。ロスタイムになっても取りつかれたようなイラクチームの怒涛の攻撃を今でも覚えている。一方で日本の代表選手は連日の試合の疲労から足が止まっていた。

その頃の代表とは打って変り、現在のチームは『W杯で優勝を目指す』と宣言している選手もいるというのだから、日本のサッカーの飛躍が窺える。実際に世界のトップとの差はわずかまでと迫っているような気がする。是非、ブラジルでは大暴れをしてもらいたい。

日本の代表は頼もしいチームになったが、それでは、何故、ここまで進化したのであろうか。

当然ながら、20年前のJリーグ発足が日本のサッカーのレベルを底上げしたのは疑いもない事実であろう。Jリーグは世界の檜舞台で活躍した一流の外国人選手が来日することのよって選手に多大な影響を与えた。ジーコ、リトバルスキー、リネカー、ストイコビッチ、レオナルド、パクチソン達である。それらの選手は枚挙にいとまがない。

現在の選手は外国の一流のチームに対しても、当たり負けもしないし、ボールを簡単に取られなくなった。これはJリーグで揉まれてきたと共に、多くの日本の選手が海外に行き、トップクラスのチームで日々戦い自信をつけていったのが最大な理由であると思っている。

まず、その海外行きの先駆者はカズであろう。1992年の春にブラジルに訪問した際に親戚の日系人の叔父から、カズの話を聞いたことがある。『Santos FCに所属していた日本人で生きのいい選手がいた』という。15歳から単身で日本を離れブラジルに武者修行に行ったカズは人知れず苦労をしたと思う。しかし、彼は様々な障害を克服して、日系人の誇りとなっていた。その頃、カズは既にブラジルを去り日本に凱旋帰国をしていた。翌年のJリーグの開幕から同選手が大活躍したのは皆が知るところである。

当時、大学生の私はメキシコに留学をしていたが、同じ時期に、日本人の中学生の二人が、メキシコのグアダラハラのユースチームにサッカー留学に来ていた。私は日本から彼らを訪れていた親に依頼されて、チームとの通訳を数回行ったことがある。その中学生達はアルゼンチン人のコーチの家で宿泊をし、現地の学校に通っていた。サッカーの大変さよりも、言葉が判らない中で、学校や生活に慣れるのに苦労している印象であった。当時、随分、大胆な留学であると思ったが、その親によると、カズの影響があったようだ。まさに、サッカーの海外留学の草分け的な存在である。

あれから20年以上の年月が経った。数々の日本人選手が海外で挑戦したが、現在の日本代表には海外のビックチームで活躍する選手が多くなった。マンチェスターユナイテッドの香川や、インテルの長友、CSKAモスクワの本田等である。

以前、本田のインタビューを聞いたことがあるが、オランダのVVVフェンロー からCSKAモスクワに移籍する際に『リスクではなくチャンスだと捉えている』と語っていたのが印象的であった。また彼の英語で堂々と自分の意見を述べていた姿に新たな日本人の選手像を見た気がした。海外において自分の人生を切り開いていく姿に共感を覚えた。また長友のような日本人の勤勉さを武器にしてチームに貢献している選手もいる。日本人の特性が世界の一流チームで発揮できている証であろう。日本人として誇りに思う。

以前は日本人にはサッカーは向いていないのではと思っていたが、今はそうではない。サーカーはチームワークと勤勉さが求められるし、香川のようなしなやかなボールコントロールが出来る選手も増えている。昨年のロンドンオリンピックにて日本・モロッコ戦を観戦したが、日本チームのプレスの仕方や攻守の切り替え等の組織プレーはモロッコを圧倒していた。これらの組織力に加えて、リスクを厭わない本田のような『個』の力が増えていけば、日本のサッカーは益々強くなるであろう。

実は国際社会においてはサッカーの強い国が一目置かれる。特に男の世界においてはその傾向が強い。サッカーはパーティーや飲み会等のあらゆる場面で話題になる。ちなみに、マンチェスターユナイテッドの香川はドイツ人にとっては完全に認められた存在である。ボルシア・ドルトムントにおける香川の活躍はドイツ人を驚愕させたようだ。

ワールドカップの決勝舞台で日本代表が大活躍する。そんな姿がブラジル大会で見たいものである。日本人としてこれほど愛国心を感じるひと時はないのではないか。できれば決勝は日本とアフリカのチームで戦ってほしい。1年後の本大会が早くも楽しみである。

2013年6月5日水曜日

チュニジアにおけるギリシャ美術品


『征服されたギリシア人が、猛きローマを征服した』ということわざがある。これはローマが軍事的、政治的にギリシャを征服したが、哲学、文学、芸術等の文明については、ローマは洗練されたヘレニズムに及ばなかったということらしい。

紀元前146年にギリシャはローマ帝国の支配下に入る。ローマ帝国支配下においてもその文明は繁栄し、その影響力の大きさから、ギリシャは『ヨーロッパ文化のゆりかご』と称されることもあるという。その後、紀元前88年にアテネや他の都市がローマ帝国に反乱を試みる第一次ミトリダデス戦争が起こるが、ローマの将軍のスッラに制圧されている。 

このような洗練されたギリシャの哲学、文学、芸術にローマ人は傾倒していたという。特にローマの上流階級にとってはギリシャから美術品に囲まれて生活する事が最高のステータスであったようだ。多くの美術品が売買されたのみならず、略奪も横行したようだ。

チュニジアのバルドー博物館の中に一際目立つ、数々の青銅の像や、大理石彫刻、壷、宝石等の美術品がある。その美術品は紀元前の4世紀から紀元前1世紀のギリシャのコレクションであるようだ。これは、紀元前の1世紀頃にアテネ近郊ピラウス港からローマに向かう船がチュニジアのマハディア沖で難破し、後にその沈没した船から回収した美術品であるという。

その美術品を運ぶ輸送船は、アテネからローマに向かうところで暴風雨等による何らかな天候上の理由でチュニジアに漂流したようだ。チュニジアはギリシャを征服したことがないことから、これらの大量の美術品はローマの上流階級に対して輸送する為であることが推測されている。この美術品の超一流の質と、年代を超えたコレクションから、ローマ帝国の将軍スッラが輸送を命じたのではという説もある。第一次ミトリダデス戦争後の出来事である。

実際にバルドー博物館においてこららの美術品をしばらく眺めたが、その繊細で表情豊かな彫刻のレベルは、その後のローマ帝国の美術品を圧倒していた。まるで『ギリシャ神』が生きたまま青銅に化身しているような錯覚に陥ったほどである。とても紀元前の美術品とは思えなかった。

これらの美術品は、1900年頃にマハディアにおいて、海綿動物を採取するダイバー達によってその沈没した船が発見され、その後、フランスの保護領下にあったチュニジア政府によって回収されたという。ダイバー達が、40m底に沈んでいた船の中からこれらの美術品を発見し、その後、それらを陸まで運んだ時には心が震えたに違いない。

週末にバルドー博物館に訪問したのはローマ時代のモザイク画を見学する為であった。しかし、その一際目立つギリシャの美術品の美しさに見入ってしまった。まさに『神の国ギリシャ』に脱帽である。

【参考資料】