2014年2月24日月曜日

大航海時代のポルトガル人が見た日本

リスボンのテージョ川岸にある『発見のモニュメント』を背にして歩くこと数分。『海洋博物館』には大航海時代に使われた大型船の模型や、古い海図、羅針盤等が並べてあり、大航海時代のポルトガルが世界に挑んでいった様子が感じられる。

その中には当時のポルトガルと日本との関係を示す展示物もある。フランシスコ・ザビエルの絵画や、日本から贈呈されたと思われる刀や火縄銃である。そして、当時の長崎港の地図も飾られている。

その説明によれば、展示されている2丁の火縄銃は、1543年にポルトガル人によって種子島に伝えられた銃をもとに、日本で改良された型であるという。当初『種子島』という名称で全国に広がり、19世紀まで同じ型が使用されたという。

司馬遼太郎の小説にも力説されていたが、このポルトガル人によって持たらされた銃が織田信長という先見性のある武将によって戦国時代の景観(ランドスケープ)を変えたことになる。1575年の「長篠の戦」みられるように、戦国時代の戦術が、騎馬戦から、歩兵による火縄銃を重視するようになったのは間違いない。もし、大航海時代にポルトガル人が『黄金の国ジパング』を目指さなければ、日本の歴史は異なったものになったであろう。

一体、当時のポルトガル人には日本はどのように映ったのであろうか。大航海時代のポルトガル人は探検家や貿易商のみならず、宣教師も海を越えて日本を渡った。日本との関係においては、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが有名であるが、同じイエズス会で、日本において30年間以上宣教活動を行い、織田信長や豊臣秀吉とも会見をしたこともあるルイス・フロイスを忘れてはいけない。『続・フロイスの見た戦国日本(川崎桃太著)』によると、フロイスは信長と18回も会っていたという。

信長は都に訪問する際には、フロイスを館に呼び、2時間にも及んで話をすることもあった。特に信長はフロイスのヨーロッパとインドの話を熱心に聞き入ったという。信長は僧侶達の反対を一切聞かず、キリスト教徒の布教を認めた。信長のその絶対的な自信とカリスマ的な存在は南蛮人にとって脅威ではあったが、同時に魅力的に映ったに違いない。その結果、日本での布教が開始されてから、約50年後の1603年にはキリシタンは30万人まで増えたという記録もある。しかし、晩年の信長は自らを神格化し、凋落の道を歩み始める。宣教師にとっては一線を越えた信長が本能寺での死に至ったのは当然の報いと見ていたようだ。

当時の日本は明や琉球との貿易を行ったり、自由な商業活動がなされていたようだ。特に南蛮人は堺について『大きな特権と自由をもち、ヴェネチアの如く共和制の政治を行っている』と伝えている。堺の今井家による商業は貿易、倉庫、鍛冶、絹繊維、問屋等のファンクションを擁し、現在の総合商社のような形態であったという。少し話はそれるが、歴史的にヴェネチア、ジェノヴァ、フィレンツェなどの商人・商社が次第に金融に特化したのが現在の金融業の始まりであり、商業銀行と商社は業態的につながりが深いという。日本の総合商社はマーチャントバンクに類似しているとも言われており、現在の総合商社が発展したのは、堺の商売の伝統を脈々と受け継いでいる為かもしれない。NHK大河ドラマの『黄金の日々』出てくる呂宋助座衛門(松本幸四郎)はかつての商社マンということになるのか。実際に7代総合商社の内の3社(2社は同根)は関西の繊維問屋をルーツにしている。

その後、堺は信長の武力圧力に屈し、自治都市の伝統は崩れ去るが、大阪の商人の伝統は受け継がれていったのだろう。当時のポルトガル人は日本が近世に入る前の時代のうねりを観察していたことになる。

戦国時代の当時は争いが絶えない不安定な時代であったが、庶民は自由に議論が出来るような素地があったと思われる。フランシスコ・ザビエルによると、日本人は教育水準が高く、議論好きで、宣教師の矛盾をつくところがあり、理論武装をする必要があったという。更にザビエルによると日本人は親しみやすく、一般に善良で、悪意がなかったという。驚くほど名誉心の強い人びとで、大部分の人びとは貧しいが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉と思っていなかったという。

これが、16世紀のポルトガル人から見た、戦国時代の日本人の姿であった。生涯独身を貫き神に誓ったイエズス会の宣教師にとっても、日本人の高い精神性が映し出されたようだ。

2014年2月19日水曜日

大航海時代


リスボン・ベレン地区のテージョ川岸にある『発見のモニュメント』。この52mの高さの記念碑は20世紀に大航海時代を称えて建てられたものである。先頭にはエンリケ航海王子が川を見つめており、その後方に同時代の大航海時代を支えた探険家や宣教師、科学者、芸術家の像が並んでいる。

このモニュメントの前方の石畳には世界地図が記されており、ポルトガル人が発見した国々とその年号が示されている。そのあらゆる航路と多数の発見した国々により、ポルトガル人が如何に世界に挑んでいったかがわかる。日本の発見は、1541年になっており、ポルトガル船が豊後に漂着した年数のようだ。新大陸の発見で有名な1492年を探したが見つからず、1500年が記載されていた。これはイタリア人であるクリストバル・コロンブスによる発見ではなく、ポルトガル人であるアメリゴ・ヴェスプッチが発見した年号を採用した為であろう。

このようなポルトガルによる快挙は特筆されるべきものであり、これらの発見により、イスラム国やインド、さらに中国との交易は活発になり、金・塩・奴隷の貿易によりヨーロッパに大きな富をもたらした。アフリカのおいては、ケープベルデ、アンゴラ、モザンビークを殖民地化し、更に、アジアにおいては、インドのゴアやマカオにもその拠点を構築していった。新大陸においては、ブラジルがポルトガルの領土となったのは誰もが知るところである。同国からは探検家のみならず、貿易商、宣教師が海を越えて未知の世界に向かっていった。彼らが家族から離れて、祖国を離れた心境はどのようなものだったのだろうか。当時は海外に行ったら生きて帰れるかわからず、決死の覚悟であったのは間違いないだろう。

実はちょうど20年前の同じ月にこのモニュメントに来たことがある。商社に就職をする直前であり、学生時代最後の休みを利用して南欧を旅した。当時も、冷たい風に吹かれながら、川岸を歩いてこのモニュメントにたどり着いた。少し大げさかもしれないが、これから海外でビジネスを行う人生に期待を抱きながら、大航海時代の探検家や貿易商に自らの人生を重ねようとした。

あれからちょうど20年が経ったが、時代は大きく進歩した。あの頃から比べて、格安で簡単に海外に行ける時代になったし、コミュニケーション方法も格段に向上した。スカイプのように世界中の人々と気軽に話せる時代が来ると誰が想像したであろうか。大航海時代とは雲泥の違いである。

ちなみに、私の商社における最初の仕事は、上司による手書きのアルファベットの文章を、テレックスに打ち込む仕事だった。そして、早朝、多くの海外事務所から送電され、帯のように繋がった3枚に重なったテレックスの紙を内容毎に切り取り、課長、担当者、ファイル用に配る仕事を行った。課内では『環境美化委員』という変わった役割を拝命し、ファイルを整理したり、机を綺麗にする地味な仕事も行った。まさに繊維問屋の丁稚奉公による雑巾掛けである。当時はそのような商社の伝統がまだ生きていた。商社に入ったら、すぐに海外に行き、外国語を駆使して商談をできると思っていた私の期待は大きく裏切られた。1年近く経った頃、初めての出張で中南米に訪問した際は、あまりにも嬉しくて、このまま日本に帰るのをやめようかと真剣に思った。

しばらくすると、丁稚奉公的な仕事も徐々に減っていった。数年すると海外事務所や顧客との交信はテレックスからイーメールに取って代わり、パソコンも課に一台だったのが、一人一台を持つ時代となった。しかし、忙しいのは変わらない。商社では若い社員が奴隷のように働くのは当たり前であり、毎日夜中まで働き続けた。いつも自宅に帰るのは終電か夜中のタクシーであり、土日のどちらかは必ず働いた。いつも睡眠不足で、運動する時間もなく、慢性的な疲労に晒されていた気がする。正直、効率も悪く、よく先輩から怒られた。腐った気持ちになった時期もあったが、仕事の厳しさはそれが当然だと思っていた。

テレックスと世界に散らばる海外駐在員という強力なネットワークに支えられた商社であったが、海外とのコミュニケーションが容易になったこともあり、製造業者に中間マージンが削られていった。商社冬の時代になり、バブル時代に生んだ負債の清算とも重なり、あらゆる商社で、大幅なリストラや、合従連衡が実施されたのは入社して5~6年が経った頃である。

その後、外資系に転職したが、振り返ってみると、商社時代も含めて多くの国に訪問することができた。華僑やインド人、アメリカ人ともビジネスを行い、様々な分野の商売やプロジェクトに携わることができた。華僑のパートナーとともにマレーシアからシンガポールにかけて港のプロジェクトに関わった。アメリカのコンビニエンスストアに日本の省エネ機器を売り込んだこともあった。結局、海外の大学院にも行けたし、色々な国の人が集まる国際的な組織にて働くこともできた。今考えると、若い頃、丁稚奉公をしたお陰で、徐々に幸運が回ってきたのではないかと思っている。

20年ぶりにリスボンの『発見のモニュメント』に来て、どのような心境の変化があるかと思ったが、実は当時の若かりし気持ちとあまり変わっていない事に気がついた。多少は鈍くなったが、今でも、海外に訪問するのは刺激的であるし、今回、ポルトガルのビジネスパートナーと商談をするときも冷や汗ものであった。老若男女問わず優秀な人達と議論したことも大きな収穫となった。

バスコダ・ガマ、アメリゴ・ヴェスプッチ、バルトロメウ・ディアスが新たな国を発見した時はさぞかし心が躍ったのであろう。その頃から比べると、世界は圧倒的に狭くなった。しかし、現代の大航海も大いに刺激的である。しばらくこの冒険はやめられないだろう。

2014年2月15日土曜日

パリ万博(日本とフランス)

パリの8区にあるグラン・パレ。ここはパリ市立の大展示場であるが、この中にあるレストランは近くで働くビジネスパーソンも気軽に来る場所のようだ。早朝からの長時間に及ぶ打合せの後、ビジネスパートナーに案内をしてもらう。展示場内ということもあり、彫刻品などが装飾してあるアーティスティックなレストランである。聞けば、グランパレとは1900年のパリ万博博覧会のために建てられたものであるという。

1900年に開催されたパリ万博は、新世紀の幕開けを祝う大変重要な博覧会であったようだ。既にパリにおいてはそれ以前に4回も万博が開催されており、当時パリが世界の文化の中心であったことがわかる。調べたところ、この祭典には日本政府も参加し、法隆寺金堂風の日本館を建設し、古美術品を出展したという。当時は日清戦争を終えている時期であり、日本が近代国家や列強を目指していた頃である。

パリ万博の話をしながら、子供の頃に見ていたNHK大河ドラマの『獅子の時代』を思い出した。同ドラマの序幕はパリを舞台に描かれているが、ここで取り上げられたのは、更に時代が遡り、1867年の第2回目のパリ万博である。日本が初めて参加した国際博覧会であり、江戸幕府、薩摩藩がそれぞれ日本の代表として出展している。封建の世が終焉に向かっている時期であり、藩が幕府に従わない構図が現れている。幕府からは将軍徳川慶喜の弟で御三卿清水家当主の徳川昭武、薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣された。薩摩藩が前年からイギリスに派遣を開始した留学生の何人かもこの出展に参加している。

30年以上前に見たドラマであるが、会津藩の武士である平沼銑次(菅原文太)と薩摩の郷士の苅谷嘉顕(加藤剛)がパリの街で、刀を抜いて争ったシーンは今でも覚えている。ちょんまげに刀をかざしていた侍の姿は当時のパリの人々を驚愕させたに違いない。

当時の幕府の派遣団は船と列車で56日の日数をかけて、パリに到着したという。船上にて、幕府の派遣団が毎日出される洋食に辟易して、『味噌汁がのみてぇ~』と連呼していたシーンが強く印象に残っている。現在は、東京からパリまでは飛行機で12時間程度で訪問でき、街では観光客をはじめとする日本人を多数見かける。多くのラーメン屋や寿司屋があり、中古本のブックオフまであるのだから当時の状況とは雲泥の違いである。

ビジネスでも日本とフランスのビジネスの関係は深まっているのではなかろうか。多くの企業がそれぞれの国に進出しており、日産とルノーの成功例を出す必要もないだろう。

実際、今回の訪問で、フランス人との距離は縮まっている気がした。打ち合わせをした全員が英語を話しており、つい10数年前まで、フランス人はビジネスでも英語をあまり話さないと言われていたのが嘘のようである。特に若い人が流暢に英語を操っている姿に感銘した。食事中に教えてもらったところ、欧州連合(EU)の後押しもあり、欧州の大学は交換留学制度が発展し、多くのフランス人が他の欧州国に留学しているという。話をした二人の若者もイギリスに留学していた。

フランスと日本はずっと近い国になったが、100年以上前に日本の派遣団がパリの万博で見せた初心を忘れずに、日本のビジネスマンも『侍』スピリットを持ち続けることが必要ではなかろうか。個人的にも菅原文太がパリの街で切り込んだような鋭いパフォーマンスを発揮できればよいのだが。。